長崎盲唖院跡地にて(長崎市桜馬場)

 

6月4日、日本盲教育史研究会が開催され、研究発表を依頼されましたので「九州と盲唖教育」という題目で発表を行いました。
これまで、わたしは京都盲唖院、楽善会と「ひとつの組織」を対象にしていましたが、九州にある盲唖教育関係の史料をよむと、個人的に教育を行うといった「小さな物語」がみえるのが興味深いと考えました。それを束のように重ね、あるいは煉瓦のように積み立てることで大きな流れにしようと試みています。

以下、発表原稿を要約して、当日いらっしゃることができなかった方にも内容が把握できるようまとめました。

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九州と盲唖教育 木下知威(日本社会事業大学)

1、目的
この発表の目的は、明治における九州の盲唖教育を学校、人物、地域の視点から質的に捉え、全体構造を理解することにある。この発表はトヨタ財団 研究助成を受けている。

2、背景 — 近代以前の九州とジェーンズ
「盲僧琵琶」といい、盲人たちが琵琶を演奏しながら生活をしていく形があった。天台宗から派生し、ほぼ九州全域に盲僧琵琶がいた。ただ、熊本だけは得度していないものが琵琶法師(座頭)として活動していた。盲が生きていく方法として、盲僧か座頭になるという選択があった。
稀なケースとしては俳諧師の道があった。白水宇逸(はくすい・ういつ)のように、幼年期に全盲となり、福岡で活動したのち、明治5年に亡くなる。しばらくして遺品が東京盲唖学校に寄贈された。これは東京盲学校 現在の筑波大学の盲学校に移ったが、行方知れずになり、忘れ去られている。
このように、九州の盲人の歴史は芸能との関係が背景としてある。これが盲唖教育とどのような関係にあるか。その可能性にもこの発表の後半で言及したい。

さて、明治に入り、九州に盲唖教育が導入される画期をどう定めるべきであろうか。それは明治7年の熊本に着目しなければならない。明治維新前後、全国各地において西洋の工業を導入するなかで、外国人を雇用する歴史があった。熊本の場合、西洋に則った教育を実践するために外国人を招いている。

その外国人がリロイ・ランジング・ジェーンズである。ジェーンズの伝記『アメリカのサムライ』によれば、南北戦争を終えたばかりのアメリカ軍人で、明治4年に来日し、熊本に滞在し、教育を行った。ジェーンズは明治7年10月4日に熊本洋学校が開校したとき、記念講演をする。その場で教育がもたらす効果について語っている。

教育は貧院を設け、啞子に談話を教へ、聾に聞くことを教へ、盲目に目を与ふ。

ジェーンズは「貧院」において、身体の欠けた部分を教育によって補うことを示唆している。これは、具体的な方法論を伴っておらず、啓蒙的な発言である。
この発言の背景として、ジェーンズの回想をみておきたい

封建制は科学や開化には何の役にも立たない。病気や害毒が濃い影のなかで黴のように繁殖する、無知の全てを隠す覆いなのである。

また、熊本の役人たちが「開化せねば、開化せねば」とも語っているところをジェーンズは回想している。ジェーンズは封建制への強い批判と、文明開化を目指す熊本に対して指針を示そうとしている。このながれで盲唖教育の可能性を述べたのである。

明治10年末になると、熊本新聞に楽善会が広告を掲載する。楽善会は、明治13年に東京に盲学校を開く団体であった。楽善会は盲教育の必要性と教育方法同時に説明することで、資金を集めている。その内容は啓蒙にとどまっているジェーンズより具体的である。次に、盲唖教育が実践されていく過程を盲教育と聾教育からみていきたい。

3、九州における盲唖教育の試み
盲教育の動きについては、盲唖学校以前に、按摩・鍼という伝統的技術の受け継ぎを目的にした学校が設立されている。明治25年に金子熊四郎による私立長崎鍼灸学校と、大分の堤亮雪(つつみ・すけゆき)による温知分舎。明治29年の宮崎正木による大日本針按研究所がある。
しかし、かれらに対するまなざしは厳しい。宮崎正木と森清克(もり・きよかつ)の回想がある。
宮崎からみていこう。

宮崎は佐賀盲唖学校の創立者であり、士族、警察関係者であったが中途失明している。失明したのは片目ともいわれるが、こう書いている。

「按摩」と蔑まれて辛うじて糊口を凌いでいた世の多くの盲人諸君の境遇に非常な同情を寄することとなった。私が一生を捧げて盲人教育に身心を打込むようになった動機はここにあった。

もうひとり、森は日露戦争で失明した軍人で、大分盲唖学校で長らく校長をした。明治39年10月に、熊本師団の検閲があったとき、当時の上司・乃木希典がいた旅館を訪ねる。しかし玄関で将校からひどい扱いを受けた。なぜなら —

盲目の私は按摩と思われて、ひどく軽蔑したあつかいをされました

明治のなかばにおいて、軽蔑をうける按摩のすがたがある。そこで明治39年3月、京都盲唖院の卒業生で熊本県立病院にマッサージ手として就職した山本傳三郎(暁得)によると、病院の向かいに花を造る盲人が住んでいた。その盲人は士族のために「普通盲人の職業が赦されなかった」という。士族にはできない、この職業というのは按摩を指すのであろう。
そして、山鹿良之(やましか・よしゆき)と石松量蔵(いしまつ・りょうぞう)がいる。山鹿は祖父から鍼灸の道に入ることを薦められるが断り、天草にいた琵琶弾きに弟子入りして一生を全うした。石松は将来を模索するとき、こう書いた。

まず私の頭に浮かんだものは按摩さんの姿であった。しかしこれも余りにいくじない気がした。なぜなら私達の仲間[・・・]では、この職業を卑しんでいたからである。

石松は最終的に牧師の道を歩むことになる。
明治中期の九州の盲教育は、まず按摩と鍼を学ぶための学校が建てられたことが重要である。
そして、明治の盲人たちは按摩として「軽蔑のまなざし」と出会っている。宮崎と森は、そのまなざしを盲教育へのモチベーションと変えていくが、山鹿と石松は避けるかのように、別の道に入っていった。軽蔑に抗うか、避けるかという構図があった。

次に、聾唖教育に移りたい。これには受動、能動、体系、という3段階の発展がある。

A「受動」 — 上野又十(またじゅう)の唖童(あどう)教育
上野の履歴書をみると、安政6年(1859)熊本生まれ。明治9年に熊本県師範学校を卒業し、小学校教員をしつつ、幼稚園教育にも関わった。近代熊本の教育界に長らく携わった人物であるといえよう。
上野は「唖童」(あどう)、唖の子供という意味で、上野のもとに唖の子供を親が連れてきて教育をして欲しいと。東京に盲唖学校があるが、通わせるお金がないから近くの上野に頼みにきた。これを契機に3人の唖者に教育を行った。それが明治14年8月15日。
上野は聾教育の専門知識はないと告白しているが、実物の数を示して数字を書きとらせるという数字と文字の結合を教えることから始め、物に名前があるということを教えた。
ここで興味深いのは、子供は手をつかって会話するようになったとするところである。例えば、子供は「夥しき」をあらわすとき、何度も合掌を叩く形で表現をした。これは上野が数字を教える際に、12は両手を1回合掌し、2を示し、1000は合掌を3回することで表現すると定義したからであった。合掌は数でいう位を意味している。上野が行った数字の教育のために考えられた手による意思伝達の方法から「夥しき」という、数えきれない意の表現が生まれている。この報告は、近代における日本手話の構造をかんがえるとき、不可欠な史料である。

B「能動」 — 稲荷山恂吾の唖生教育
稲荷山の履歴書によれば、安政4年(1857)大分 生まれ、かつての名前は「市川省吾」。明治15年に中津中学の助教諭としてスタートした教員である。
彼の聾教育は、2つの視点で説明できる。
まず、1つめは『大日本教育会雑誌』から伊沢修二、小西信八といった東京における最新の盲唖教育の情報に刺激を受けたことである。2つめが、みずから唖の子供を求めて探して、聾教育を行ったことである。
大日本教育会は、もともとは東京にいた教員だけの教育会で、明治16年から全国的に展開していく。この時点、東京で789名、地方で637名のおよそ1400名ほどの会員がおり、発行する雑誌は全国に発信力をもっていた。この雑誌は、教員の専門知識を涵養し、集団化を図ることがねらいであった。稲荷山はこれに刺激をうけている。稲荷山の報告は、最新の口話教育の理論である視話法が九州において展開していることを証するものとして重要である。

C「体系」 — 秋吉基治の聾唖教育
秋吉の履歴書をみると、安政6年、熊本生まれ、高等師範学校を卒業し、五高の教員となった人物である。学歴と地位が高い人物である。秋吉はまず「慈善的目的」で明治26年に自宅で聾教育を行った。当初は、4、5人だけ教えていて、発音ができるようになった。翌年、かれのもとに入学の申し込みが殺到し、10-20歳の聾者に限定して、その数は60名に達していた。教員は3名である。
秋吉は明治27年4月14日に五高の非職を命じられ、5月16日に聾唖学校を設立した。聾教育のために仕事を失っている。しかし、完全な授業ができず、支持できなくなったために12月22日に閉校届けが出た。1年ももたなかった。このあと、秋吉は転々と中学校教員をする。心が折れたかのように、二度と聾教育の世界に姿を見せない。秋吉の聾教育は挫折しているのである。

上野、稲荷山、秋吉の聾唖教育についてまとめると、安政期生まれで、20-30代の若い時期に聾教育に取り組んでいるという共通点がある。上野と稲荷山を比較すると、上野は保護者から依頼されるかたち、稲荷山はみずから子供を探して教育を行おうとするという違いがある。ここから上野は受動、稲荷山は能動的な教育といえる。秋吉は60人を教育しようとしたが、学校として成立させることができず、挫折した。
かれらの教育をみると、聾教育の需要が、保護者と教員の両方から生じており、需要が重層化している。九州においては聾唖教育が3つの段階を経ていくことで、根ざしつつあった。

4.九州における盲唖教育の発展について
明治31年の長崎盲唖院をはじめとして、九州の各地で盲唖学校が成立していく。これは盲人の動きと並行していることに留意したい。「動き」というのは東京盲唖学校・京都盲唖院の卒業生による「帰郷」と「赴任」である。

「帰郷」は長崎の野村惣四郎(宗四郎とする文献もある。 明治25年 京都盲唖院卒)、延岡の関本健治(明治39年 京都盲唖院卒)、福岡の小島(明治32年 東京盲唖学校卒)のように、盲唖学校で教育を受けたあと、地元に帰るという形である。
「赴任」は南雲総次郎(明治33年 東京盲唖学校卒)山本傳三郎(明治39年卒)が病院のマッサージ手として出身地ではないところに赴任するかたちである。南雲は山形、山本は福井出身であり、それぞれ故郷を離れて赴任することになった。名前からわかるように、このふたりは長男ではなく、本来なら家を継ぐ立場ではなかっただろう。
ここで重要なのは、近代医学におけるマッサージの受容である。マッサージは明治20年台半ばに、西洋から導入された。その効果が期待され、病院においてマッサージを試られていく系譜がある。マッサージは「西洋按摩」などと翻訳されたが、定着せず、マッサージに落ち着く背景があった。これによって蔑視的な意味を避けていた可能性を検討すべきであろう。いずれにせよ、マッサージによって、盲人が「赴任」することができたことが興味深い。

かれらの共通点として、京都・東京で盲教育を受けた経験を持つことが挙げられる。これは近代的盲人のモデルであった。そして、盲教育とともに聾唖教育の必要性も同時に訴えることもあった。彼らに支援者・同調者が出ることで、盲唖学校が成立するが、どこも運営が厳しい。
たとえば大分は、補助金をもとめる請願書を出しており、1カ月の収入が生徒の月謝全体で16円75銭であったが、支出が34円75銭という赤字の状態であった。盲唖学校にはこのような厳しい運営にあり、京都盲唖院でさえ慈善会があった。大分は、教育会に運営を任せる方法に切り替えたが、多くは「慈善会」という支援団体を設立し、慈善的視点で寄付を集めることで予算を確保しようとしている。寄付の集め方は学校によってまちまちで、長崎は、月報を出版し、購読料・広告料を運営費にあてている。ほか、生徒がかかわる例として、さまざまな芸を披露して収入を得るという手法「演芸会」をすることがあった。長崎、鹿児島、熊本などがやっている。そのプログラムをみると琵琶が出てくるところが特色である。

たとえば、石田久年(ひさとし 熊本盲唖学校、大正7年卒)の回想を読んでみよう。

〔当時の盲生は〕肥後琵琶の達人あり、新内、浄瑠璃と色とりどりで、なく声、音さまざま[・・・]」「〔寄付金を集めることについて〕学校やお寺などで講演会を開き、点字の読み書き、手話の披露、余興として講釈、浪花節、足芸などを披露[・・・]

そして、田辺直行(鹿児島盲唖学校 大正10年卒)の回想も併せて読んでおきたい。

学校にいるお金をとるために慈恵音楽会や寄付募集などいろいろなことをされた[・・・]薩摩びわをひいたりしてこられた方々にお見せした[・・・]

ここから盲唖学校の盲教育は、琵琶中心ではないが、生徒に琵琶を弾けるものがおり、「慈善会」のプログラムにも出ることで運営の一端を担っていた。九州において盲唖学校と琵琶の文化は分断されているのではなく、重複しているのである。

明治30年代後半からの動向について簡単に振り返っておきたい。九州で盲唖教育を受けたものが外で盲唖教育を推進していく。長崎盲唖院でいえば、佐藤周平と西田喜平。明治37年卒の佐藤は大分で誨蒙(かいもう)学校を建て、大分県立盲唖学校の母体となる。明治45年卒の西田は履歴書によれば、明治15年 香川生まれで14才のときに失明。明治42年に長崎盲唖院にはいり、45年卒業。大正3年に佐賀盲唖学校の教員となり、学校が閉校になった後は自身で佐賀盲唖教授所を建てた経験がある(大正4〜13年)。すなわち長崎盲唖院の卒業生が、大分と佐賀における盲唖学校の成立要因となっているのである。

九州以外で盲唖教育を推進するケースとして、吉津邦基(よしづ・くにき)、浜崎勝(まさる)、西原正則が挙げられるだろう。吉津と西原は台湾総督府国語学校で公学校の教員になるためのコースを出る。台湾に渡ったのは学費がかからないから。しかし卒業後は定められた学校に赴任しなければならないきまりがあった。
台湾で盲唖教育と出会うところがかれらの共通点であろう。たとえば、西原はたまたま台南盲唖学校の悲惨な状況を目撃し、盲唖教育に入っていったと回想している。浜崎は、熊本教育会附属教員講習所が国内の最終学歴で、訓導をしていた人物であったが、台湾にわたってキャリアをあげようとしたことが履歴書よりわかる(説明しなかったが、それは訓導から教員となり、給料が上がっているため)。かれもまた台湾で盲唖教育に出会った。このように、九州をでた人が日本の外で盲唖教育と出会い、教育をする状況がみられた。

5、まとめ
近代における九州の盲唖教育は、熊本洋学校に招かれたジェーンズの講演と、楽善会による啓蒙から始まった。盲教育は、生活の方法として按摩・鍼という伝統的技術による教育が蔑視のまなざしを受けながら行われていた。その眼差しを避ける盲人もいた。
聾唖教育は明治10年から20年代の熊本・大分において教育の段階的な発展が見られた。明治30年代になると、東京盲唖学校と京都盲唖院の盲人の卒業生というロールモデルが、九州に帰郷・赴任することで、盲唖教育の実現を後押しする。
盲唖学校の運営は厳しく、支援団体があった。生徒がかかわる演芸会では琵琶による演奏がされており、盲僧琵琶・琵琶法師といった九州独特の盲人の文化が背景にある。大正をすぎると、九州でまなんだものが外で盲唖教育を担っていく。

総じて、九州の盲唖教育とは、教育の需要、蔑視、挫折、憐れみのなかで発展するものであった。

1件のコメント

  1.  久しぶりです。
     熊本盲を3年前に退職した菊池きよ子です。その後分かった熊本盲の歴史について報告します。
     実家の整理をしているときに、熊本盲の創立期に肥後盲唖保護会会長 犬飼真平氏が宮地村(現 阿蘇市一の宮町宮地)の2代目村長で、豊肥線敷設に尽力したこと、子孫の方が阿蘇神社近くにいらっしゃること(と言っても、犬飼氏は当主の姉の後婿に入って実子はいないらしいため、本家の子孫)が分かりました。
    また、豊肥線敷設に力を入れた方と肥後盲唖保護会には重なる人が複数いることも分かりました。このあたりはもう少し調べてみようと思っています。
     しかし、一つ不思議なのは、熊本盲の50周年直前の校長 小代勇先生が犬飼氏について何も残していないこと、語っていないことです。小代先生の実家は宮地の古いお寺で、犬飼氏の旧居からそう離れていません。年代的にも重なっています。
    盲学校に赴任するまでは盲学校と犬飼氏の関係を知らなかったとしても、すぐに結びついたと思うのです。
     犬飼氏は本家(栗林家)からは山師と言われているそうです。犬飼氏のお墓教えてもらおうと栗林家の現当主にお会いしたときも「知らなくてもいい歴史もありますから」とおっしゃったことから、難しい関係があるのかなと思ったところです。
     少しずつ調べています。ご協力をお願いすることがあると思いますので、よろしくお願いします。 

    菊池きよ子

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