杉山和一は近世の盲人史において特筆される鍼医である。その業績はこれまで多くの研究があり、塙保己一と並んで知名度が高い。わたしはこれまで盲人の歴史に関して点字の受容について論文を書いたこともあるが、杉山の業績についてくわしくリサーチしたことはなかった。
そこで、江ノ島まで行く機会があり、杉山和一が建立したとされる江ノ島道道標を見てまわった。これらの道標が杉山に由来するという根拠は何の史料によるのだろうかという問いはあるけれども、まず道標そのものを見ておきたいと思ったのだった。予備調査として、2009年に発表された「杉山和一に関する調査報告」およびインターネット上の情報を参照しつつ、総合させると、道標は15基確認されており、うち13が藤沢、残りが鎌倉市と東京都世田谷区の玉川にある幽篁堂庭園の跡地である(マンションが建っているが、遊歩道にあるようだ)。
さて、スケジュールの関係で見たのは藤沢市にある8基なのだが、これらの道標をみてまわると、いずれも同じく120〜130cmほどの高さで文字が大きく彫られているのを特徴とする。いずれも正面に「सु(ソ)ゑ能し満道」、向かって左に「二世安楽」右に「一切衆生」とある。状態については良好なものから一部を欠くものまでまちまちだが、白旗神社のものは文字が判読しやすい。ほか、重要な点として、藤沢市役所新館脇の2基と、片瀬市民センターの1基が他のところに移転されていることも確認できた。市役所のは砥上公園、藤沢橋にそれぞれ移転。片瀬市民センターの1基は大源太公園に移転されているので、先述の報告及びインターネット上の情報の多くは古くなってしまっている。移転の理由は判然としない。なお、市役所の2基は「そのどちらかが辻堂市民図書館隣家のY家脇から移されたものだという。(残りの1基は藤沢市民病院付近から移されたらしい)」ということが掲載されているウェブサイトがある。
これに信をおくなら、現時点ですでに複数回移転している道標があることになり、もともとあった場所を推定することが困難になっているといえよう。藤沢市は記録を残し、何をどういう目的でどこに移転するのか、どこにあったのかホームページなどアクセスしやすいところに明示すべきなのではと思う。市の文化財なのだから。