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目次
序章 見えない世界を見る方法
1章 空間
2章 感覚
3章 運動
4章 言葉
5章 ユーモア

盲人はたしかに社会的な通念でいえば「視覚障害者」ですが、「目の見えない人」と表現することで、視覚障害の言葉そのものがもっているガチガチに固まった概念をとりはらっています。著者は「視覚を遮れば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解です。それは単なる引き算ではありません。見えないことと目をつぶることとは全く違うのです。」(29頁)という前提で、目が見えないことはどういうことかを論じています。

著者は盲教育にかんする専門家ではなく、美学を主なフィールドとしています。美学というと「美しいこと」とは何かを追究する理論体系で、視覚が主な感覚として扱われてきました(著者は美学とは「体で分かる学問」と定義しています 26頁)。美学の視点として「身体とはなにか」という問いとともに身体論が書かれてきましたが、身体一般で考えるのではなく、特徴のある体を明らかにすることの道を選びます(27頁)。

そこで、4人の視覚障害者 — 盲人との対話をつうじて、美学の視点から分析されます。その分析とは、ずばり、1章から5章の「空間」「感覚」「運動」「言葉」「ユーモア」のテーマごとになされます。わたしは著者のウェブサイトにある盲人たちへのインタビューを読んでいるのですが、この本はそのインタビューそのものに対する分析ともいえるでしょう。

挿絵はなんとあの山形育弘さん。去年、馬喰町のgallery αMで開催されていた小林耕平展で、ピンポン玉をぶら下げた野球帽をかぶり、小林さんにひじょうに冷徹なつっこみをしていた人として記憶に残っています。

この本を読んだとき、これまでの盲人たちの本がより深まり、輝くように思われました。今回はそのことを書いてみようと思います。前提として小説では横溝正史のように盲人が登場するものもあるわけですが、それは一旦おいておいて、ノンフィクションにかぎって流れをみてみたい。この流れは2つあるように思います。

1つは目が見えない人自身によって「主観的」に書かれたものです。本間一夫『指と耳で読む――日本点字図書館と私』やモハメド・オマル・アブディン『わが盲想』がそうです。盲人の「視点」からどのように世の中が描写されているのかというテーマがあります。
もうひとつは「客観的」に書かれたものです。たとえば、赤座憲久『目の見えぬ子ら — 点字の作文をそだてる』があります。赤座は岐阜盲学校の教諭をした経験があり、盲の子供たちの作文が多く引用されつつ、著者の心情と反復運動する構造になっています。要するに、盲の子供たちにとっての盲学校の空間・生活と経験が客観的に語られている。盲学校の教諭という盲の子供たちと日常的に顔を合わせる立場であることからできる仕事でもあります。
あるいは、盲人のプロフィール集があります。古いものですが、明治23年に出版された石川二三造『本朝瞽人傳』があります。「瞽」は「こ」「く」ともいいますが、鼓の皮のように微動しない目 — 機能しない目という意味で、目が見えない人という意味として使われていました。乳白色の膜が覆った、機能しない目ということでしょうか。このことばは現在ではほとんど使われていません。石川もまた盲人(弱視)で、盲人による盲人たちのプロフィール集といえるでしょうか。
一部だけとりあげましたが、これらのように、盲人を主観的・客観的にとらえようとする流れがありました。

だけれども、伊藤さんの本はこれまでなかったもので、見えないことをおもしろがっています(もちろん、盲人を侮蔑しているのではありません)。盲ということばから解き放たれています。
4章「言葉」ではガラスと思っていたコップが「陶器」と言われた瞬間に陶器となってしまう盲人の経験が語られ、目が見えない人はそのつど得られる情報によってイメージを修正しているという分析がなされます(177頁)。なるほど、と膝を打ったところですが、目がみえないことについて垣根が低くなったように思えると同時に、これまで読んできた盲人たちの感覚が想起されてくるものがありました。たとえば、先ほど紹介した赤座『目の見えぬ子ら』には枕と猫を間違えてびっくりする盲のこどもの作文が紹介されています。すこし引用してみましょう。

(・・・前略・・・)晩ごはんをたべて部屋に帰って、枕カバーを洗おうとして、ちょっと枕にさわったら、「ニャー」といったので、びっくりした。そのとき、「おうい、みんな猫がおるぞう」といったら、みんなぞろぞろときて、抱いたり撫でたり(・・・後略・・・)(88-89頁)

この作文は1960年に書かれたようです。枕にふれたとたん、「にゃー」というから、枕は猫になってしまったということですが、これとガラスと陶器の話は「イメージの修正」という点において共鳴しているように思われます(ぞろぞろ、という言葉のイメージもおもしろいけど)。伊藤さんの分析のあとにその作文を読みおすことによって、50年ぐらい前の盲人の感覚がわたしのなかにはいってきます。何よりもそこに感激したのでした。それが可能になったひとつの要件として、この本に登場する4人の盲人たちは『本朝瞽人傳』に代表されるような、盲人それぞれ個別的に描いていないことに起因するのではないか。そうではなく、かれら4人をひとつの有機体として著者のなかで咀嚼されることによって、目がみえないというあたらしい感覚そのものが示されたように思えます。

 

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