去年11月、表象文化論学会で楽善会に関する研究発表を行いました。それはプロソポグラフィの手法で分析を行ったのですが、じつに多くの人物を知ることになりました。プロソポグラフィの場合、当然ながら1人ずつのプロフィールを集めなければいけません。西洋史であれば、アレクサンドロスを取り巻く人たちの研究として、ベルヴェによるものが挙げられるでしょう(Berve, H., Das Alexanderreich auf prosopographischer Grundlage, 2 Bde., München 1926)。

この研究においても、個人のプロフィールをどう集めるかという問題があります。氏名はわかっていても、史料が見いださなければプロフィールを明らかにすることはできません。

それで楽善会に寄付をした人に伊東友賢がいます。伊東に関する伝記が伊東信雄「伊東友賢小伝 : プロテスタント受洗した最初の東北人の伝記」(東北学院大学東北文化研究所紀要 / 東北学院大学東北文化研究所 [編] 6、1974)です。これをよむと、楽善会とのつながりがおぼろげに見えてくるように思われます。そのつながりを意識してまとめておきましょう。

これまで、伊東はどのような人物だったのか明らかではありません。著者の伊東信雄は「伊東友賢はわたしの祖父である」と告白します。名前からして東北大学で教鞭をとられた考古学者であると思われます。

さて、伊東は1843年に仙台藩の藩医の四男として生まれ、同じ藩医の伊東友順の養子となり、友賢となります。伊東信雄の長男・賢治が書いた略歴があり、それによれば明治初年に横浜のヘボン、高松凌雲について医術を研鑽したといいます。ヘボンというと楽善会友・岸田吟香が眼病の治療を受けたときの眼科医です。これについて、伊東信雄は周辺史料からヘボンのところで学んだことについて史料の裏付けができないとして、事実を保留しています。この部分は考古学者の視点による、慎重さがあるのでしょう。

itoyuken伊東友賢(明治元年横浜にて撮影)同論文より引用。

幕末の混乱を経て、明治5年2月2日、9名の日本人が洗礼を受け、日本初のプロテスタント教会「日本基督公会」が横浜に成立したといいます。そして、2回目の洗礼が3月21日に行われ、受洗した6名のなかに伊東友賢がいました。伊東は東北人としての最初のプロテスタントといいます。史料として日本基督公会の『公会日誌』と『公会名簿』を使用しています。著者はとりあげていませんが、小澤三郎『幕末明治耶蘇教史』には、その様子を目撃した報者・安藤劉太郎による報告書が収録されています(396頁)。これによれば、同じ日に伊東が受洗していることがわかることから信をおいてよいと考えられます。そして、伊東が受洗した理由は明らかではないといいますが、ヘボンのところで学んだことがきっかけではないかと推測を立てています。
上にあげた写真をみると、肝心の顔に汚れがあり、表情がよくみえませんが、骨格の具合からして顔が濃そうな印象を抱きます。

そして、かれが友賢から本支(もとえ)に改名しているのは著者が所蔵している東京滞在の延期を願い出る願書の署名から、明治6年のことであるとします。改名の理由として、井深梶之助の回想より”You can but I cannot”と友賢が”ユーキャン”に重なっているところに本人は抵抗感をもっていたとしています。これ以外の理由はあきらかではないとします。

さて、伊東は東京のどこにいたのかというと、小石川の中村正直の家の近くにいたとされています。伊東の三男は中村が名付け親になっているとします。この中村と伊東のむすびつきについて、著者は「キリスト教と英語」であると考えます。中村もまた、楽善会の主要メンバーでした。楽善会が活動しはじめていた明治10年6月には伊東が陸軍軍医として勤務しているといいます。

そして、恋愛のトラブルをおこしてしまい、明治13年に妻と離婚し、交際していた女性と結婚します。陸軍もやめ、医院を営みながら、明治34年に脳溢血で倒れ、一生を終えたといいます。

伊東は子供達に受洗したことは話さず、著者がその事実を知ったのは、植村正久の本によるものであったといいます。伊東がキリスト教に入信した理由、葬儀もキリスト教式であったことからその信仰は強いものであったと考えますが、現在その事実を知る人はいないと考えます。そしてこう書いて筆を置いています。

 

「まことに明治は遠くなりけりである。」

 

この伝記が出た1974年、わたしはまだ生まれていません。その時代において明治はすでに遠くなってしまっているということは、わたしがいま、パソコンに向かってタイプしているこの2014年において、明治はもはやかききえようとしている時代であるということなのでしょう。

著者は冒頭に「私が書残して置かないと(中略)この人物の閲歴は永久に消えてしまうおそれがある」と書いていますが、まさに書いて頂かなかったらば、わたしが伊東のことを知ることもできず、楽善会とのおぼろげなつながりも見通せないでしょう。歴史という時間が、こうも微妙な今にも切れそうな糸のうえにあるように感じられました。

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