「日本最初盲唖院創建之地」の碑 京都第二赤十字病院にて(2011年7月22日撮影 ただし、位置は南にずれている)。

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去年の8月に医学書院『訪問看護と介護』2012年8月号に掲載されたインタビュー記事について、盲の方より読みたいというリクエストがありましたので、全文テキストを準備しました。ただし、写真は著作権の関係で削除していますので、写真をごらんになりたい方は、こちらよりPDFをダウンロードしてください。

なお、中に入っているコラム「「京都盲唖院」とは?――京都の人々と共にあった“学び”と“生活”の場」はこちらのポストを参照してください。

【】の部分は読み上げの補足です。

どうぞよろしくお願いいたします。


 

【表題】新たなケアは「違い」の認識から — さまざまな違いが共にあった京都盲唖院を追って

【案内文】 1878(明治11)年、京都の中心地に建てられた「京都盲唖院」。現在の聾学校・盲学校の源流となった学校でもある。そこには、目の見えない、耳の聴こえない子どもたちが、共に学び生活をしていた。その歴史を追い続けている木下さん自身、生まれつき耳が聴こえない。幼いころから「他人とは違う」という思いを抱いていたという。しかし木下さんは、「その『違い』は盲人・聾者に限ったことではない」と述べる。老いに伴って体の機能が低下し、いろいろな「違い」があらわれる。その「違いの存在」を知ることで見えてくる、現代のケアに取り入れるべき視点とは――。

【本文】「盲唖院」を辿る――自らのルーツを求めて

 

――【質問】まず、京都盲唖院への関心をもったきっかけからお聞かせください。

きっかけは2つあります。1878(明治11)年に創立された京都盲唖院では、盲・聾(当時は「聾唖」「唖」「瘖唖」などとさまざまな呼称が散見されたが本文では聾と統一する)の子どもたちが、共に勉学に励み、共に生活をしていました。しかし、1923(大正12)年の盲唖分離令(盲人・聾者の生活に須要な特殊な知識・技能を授けることを目的とし、文部省により定められた)により盲・聾教育の分離が進み、盲学校と聾学校とに分かれていきます。

しかし、平成に入って逆に、少子化のために統合される学校が増えるにつれ、障害児が通う特別支援学校も統合されていきます。そのなかで、かつての京都盲唖院のように聾学校と盲学校がひとつの建物のなかに両存するケースも出てきているのです。

一方、盲・聾学校に関わる人たちは、互いが一緒になることにとても不安を感じることがあります。お互いの子どもたちは、教育方法もコミュニケーションのとり方も違うからです。しかし、京都盲唖院では、盲人と聾者が一緒に過ごしていた。そこで、いまだからこそ、京都盲唖院が何を成したのか、彼らがめざしたものはなんだったのか、周りの人々はどのように盲唖院をみていたのか、といったことを評価することが必要だと考えました。それがひとつ。

 

――【質問】木下さんご自身はどのように学んでこられたのでしょうか。

わたしが育った1980年代、通った小学校は、どこにでもあるような公立の小学校で、聾学校ではありません。そこで皆と一緒に学ぶクラスと特殊学級(現在の特別支援学級)の2つに通っていて、国語だけは特殊学級、ほかはすべて皆と一緒に机を並べていました。授業では、手話は一切使いませんでしたね。当然、先生の話すことがわからない場合も多く、教科書を読んで理解してきました。

学校では手話ではなく口話(口型より言葉を読み取る。当時、手話は日本語習得の妨げになると考えられていた)によって日本語教育を行なうことが大きな潮流でした。なので、両親や周りの人とは口話と筆談だけでやりとりをしていました。

特殊学級での授業は、黒板にもうひとつ小さな黒板がマグネットで貼りつけられるようになっていて、そこに授業で取り上げられる重要なフレーズが書いてあります。それをもとにわたしを含めた同級生たち4人の生徒たちと会話していく、という対話型の授業でした。教科書に書かれている文章の、文意を問うような内容でした。授業で何を伝えようとしているのか、とてもはっきりしていましたね。その授業がいつも楽しみでした。

 

【見出し】ひとつの空間での生活から生まれた盲唖院独自の形

関心をもったもうひとつのきっかけは、2007(平成19)年3月、わたしは博士課程の学生でしたが、京都府立盲学校の資料室を訪れたことがありました。そこには、京都盲唖院について書かれた文書、いわゆる「京盲文書(京都府立盲学校文書)」が320冊以上ありました。それだけ膨大な資料が、十分に研究されることなく眠っていたのです。これらを使って京都盲唖院の建築を明らかにできないだろうか、と考えました。つまり、京都盲唖院の建築に込められた考えはなにか、そして、盲人と聾者が生活した空間はどのような形だったのか、ということに非常に興味がわいたのです。京都盲唖院には、とりわけ重要な先行研究が2つあります。それは『京都府盲聾教育百年史』(京都府教育委員会、1978)と、京都府立聾学校で数学を教えておられた故・岡本稲丸(いねまる)元教諭の『近代盲聾教育の成立と発展―古河太四郎(たしろう)の生涯から』(NHK出版、1997)です。しかし、これは教育史の観点から、京都盲唖院と古河太四郎を研究したものであり、京都盲唖院で盲人と聾者がどのように学んでいたのかは、明らかにはなっていませんでした。

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現代において盲学校と聾学校が統合されるときに、限られた空間をどのように使い分けるかということはとても大切だと思います。わたしは、大学から建築計画学を学んでいますが、日本初の盲・聾学校がどのような建築だったか明瞭でないことは、福祉施設の歴史や学校の計画史においても大きな問題だと思いました。この研究で、京盲文書などの記録を探して読み、自分のなかで構成しなおしていく作業は、舞台の上で京都盲唖院の人々が役者になって、「京都盲唖院」という劇をしているところをみているような感覚がありました。

――【質問】研究を通して知った「盲唖院」は、どのような場所でしたか?

京都盲唖院の場そのもので学んだひとに会ったことはありません。盲唖院は1914(大正3)年に盲部と唖部に分離し、校舎が隣り合っている状況でしたので、大正一桁の生まれの方ですら、入学されたときにすでに京都盲唖院というひとつの学校はなかったのです。なので、わたしのイメージでのお話になってしまうことを最初にお断りしておきます。

わたしのイメージでは、京都盲唖院はとてもにぎやかだったのではないかと感じています。たとえば、明治30年代、京都盲唖院は現在の京都府庁の前、京都第二日赤病院のところにありました(前頁コラム図参照)。敷地は1126坪でしたが、生徒は約150人から約250人に増加する時期でした。こうして考えると、一人当たり4坪ほどしかありません。さらに敷地には教場(教室)、職員室だけでなく寄宿舎、風呂、食堂、運動場がありましたので、実際はもっと狭く感じられるでしょう。京都盲唖院は1899(明治32)年に大きく改築されたのですが、当時の計画図をみると1つの教室に24~36人の生徒が割り当てられており、ギュッと詰まったなかで教育をうけ、寮生活をしていたのではないでしょうか。

それから、新聞記事や雑誌の調査も重要です。たとえば、大阪と東京で活躍した松崎天民(てんみん)という有名な新聞記者が、京都盲唖院についてくわしい文章を書いています。それによれば、盲生と唖生は同じ教室で教育を受けていません。ここは誤解されやすいところですが、盲と唖は別教室で、教育上はしっかり区別されていました。

しかし、盲唖院が作った年賀状をみると、盲生が和歌を詠み、唖生が日本画を添えています。生活の場をみると、寄宿舎の部屋は盲と聾、男女別と考えられますが、日々の食事など共同生活は、ひとつの空間で行なっています。

おもしろいのは、二代目・五代目院長である鳥居嘉三郎(とりいかさぶろう)は、聾の子どもたちに、盲人の教室に入って勝手にものを動かすと盲人は困ります、という訓示をしていることです。これは逆にいえば、盲人と聾者のコミュニティが重なりあっていたとも解釈できるのではないでしょうか。京都盲唖院の唖部に通学していた聾者のお話で、盲人と交流したことがあるというのです。たまに自分たちで盲部のところに遊びにいっていたとのことでした。かつて、盲部と唖部は隣同士ということもあったのでしょう。そのお話のなかで「昔はよかった」というひとことが忘れられません。京都盲唖院には、盲唖院独自のコミュニティがあった証拠だと思います。つまり、「盲唖院」は、単純に盲学校と聾学校を半分にした学校なのではなく、盲と唖のコミュニティが両存しつつも、重なる部分があり、盲と唖の交流があった学校ではないかとイメージしています。明治40年に撮影された祝賀会の集合写真では、盲生と唖生が入り交じっていることがわかります。

この話は、盲唖院の記録には残らない、アンオフィシャルなものです。京盲文書は、盲唖院を運営していく側からの視点で書かれたものですから、生徒たちのあいだでなされたプライベートなことは、よほどのことがなければ書かれることがありません。歴史研究において、オーラルヒストリー、手話ですとサインヒストリーといった「記憶を記録すること」が重要ですが、普通は表に出てこない話を聞くことがあります。このように、ヒアリングで、京都盲唖院の関係者やそのご遺族とお会いして話すとき、自分のルーツを辿っているような気持ちになります。なぜなら、おなじ耳が聞こえない人として彼らがかつて体験した時間に思いをはせることで、まるで時空を超えて京都盲唖院のなかに入りこんだように感じるからです。

 

【見出し】分けることで生まれる隔たり

もともと盲・聾学校が分離したのは、それぞれの教育方法が違うために、現場で混乱をきたしているという当時の教員の声があったからだと理解しています。ですから、現在の盲人や聾者たちのあいだで、かつての京都盲唖院にネガティブなイメージがあることは否めませんし、彼らのあいだに交流はほとんどないように見受けられます。つまり要因は、学校が分離することで出会うきっかけがなくなってしまった、という点にあると思います。 でも、おもしろい話をうかがったことがあります。それは京都府立聾学校の元教諭の奥さんから、戦後まもなくのころ、盲人の女性と聾の男性のご夫婦に会ったというお話です。このときは京都盲唖院で学んだ人が活躍されていた時代ですが、いったいどのように意思疎通をしていたのだろう、と思うようなお話です。

生物学者で哲学者のユクスキュル(ドイツ、1867〜1944)の『生物から見た世界』(岩波文庫、2005)という本があります。ユクスキュルは、生物はそれぞれシャボン玉に包まれていて、それを「環世界」と呼び、個々が知覚する世界はそれぞれ異なっている、という考え方を示しています。

私自身も、幼いころから自分が聞こえないということをよく理解できず、ただなんとなくぼんやりと「自分はほかの人と違う」という思いをずっと抱いていました。しかし、その「違い」は盲人・聾者に限ったことではない、と思うのです。視覚と聴覚はひとが世界を認識するにあたって重要な感覚です。そして、このふたつの感覚は性質がたいへん異なっていますので、欠如しているもの同士が、いかに意志疎通をしていくかというのは、とてもハードルの高いことだと思われていたのかもしれません。しかし、京都盲唖院は聾者が字を書いて、盲人がそれを手でなぞって読むという機器が開発されたことがあり、現在は分かれてしまった盲人と聾者をつなぐものとして考案されたのでしょう。

現在の身体障害者研究は、盲の歴史、聾の歴史など、身体の種別ごとに行なわれています。それは、盲と聾が社会的にも医学的にも法的にも「違うもの」として区別されているからでしょうし、分けて研究するほうがやりやすい面もあります。しかし、わたしは、少なくとも近代から戦前においては盲と聾の歴史は一体の、融和したものとして考えるべきだと思うのです。そうでなければ、京都盲唖院をはじめとする「盲唖学校」の像を捉えることはできません。どちらか片方では捉えきることができないのです。

 

――【質問】現代社会で、「違い」をもつ人々が共存していくには、何が必要でしょうか?

たとえば現在は、60歳、65歳という年齢で突然「高齢者」とひとくくりにされます。これらの方々は高齢者と分類され、「高齢ではない人」と別のものになってしまいます。介護度の認定も、コンピュータによって判定されますよね。

でも、京都盲唖院で考えると、盲と聾はお互い違うけれども、たしかに同じ時間・場を共有していた。つまり、異なる「違い」をもつ者たちが共存することは、不可能ではないと信じたいのです。そうした歴史を知ることは、現代においてもとても大切だと思います。 ニーチェ(ドイツの哲学者、1844〜1900)は『人間的、あまりに人間的(補巻)』(筑摩書房、1994)という本で「測るものとしてのひと」という表現をしました。これは、人間は「測定」を発見して以来、あらゆることを測量しようという欲望のもとに生きてきた、ということです。ニーチェが生きた19世紀後半は、歴史的に生理学が大きなキーワードで、生理学者たちによって身体の感覚が数字的に測定されました。現代社会における高齢者や障害者は、このような系譜のなかで分類・定義しなおされている存在です。ですが、この方法がいま、行き詰まってきているのではないでしょうか。

尺度を決めて分類することで、消えてしまうものがあります。これからは、たとえ合理性から逸れようとも、いかにして個々人に対応していくかということが、より大切になります。

聾者の方が多くおられる特別養護老人ホーム「淡路ふくろうの郷」(兵庫県淡路市)を訪れたときのことです。そこでは、聾者が施設長で、スタッフにも聾者の方がいらっしゃいます。入所者も、聾者をはじめさまざまな方が共に生活をしていました。その様子をみていると、区分けや分類を超えた、本来のあるべき姿をみたように思ったことがあります。

 

【見出し】「違い」に先立つ「変化の存在」

芸術家のマルセル・デュシャン(フランス、1887〜1968)の作品に『階段をおりる裸体 No.2』という絵があります。徐々に階段を降りていく、抽象化されたヌードのような第一印象がある絵画です。人が階段を降りようとする場面を切り取るのではなく、階段を降りていく身体が連続して描かれています。そこでは、ここにいると思った身体がもうそこにはなくて、次の階段を歩いている。人の身体はこうもおぼろげなのか、とショックを受けたことがあります。

すなわち、身体は常に変化しており、けっしてひとつの枠に当てはめることはできない、ということです。その変化が、いつ、どこに、どんなふうに訪れるのかは、人によって違います。だから、個人を制度の枠に当てはめて分類するのではなく、まずは「変化の存在」を受け入れる仕組みが大切なのだと思います。たとえば、耳が聞こえにくくなっているのに身体障害者福祉法に則った検査では身体障害者ではないと診断されて悩んでいる事例もあります。つまり、白いものと黒いものを考えるとき、灰色の存在を忘れてはいけない、二項対立は現代において成立しないことを認識するということです。

たしかに、それぞれの人が抱える「違いそのもの」を理解することはできません。しかし、「違いがあること」を理解することはできる。そこから新しいつきあい=ケアがスタートするのではないかと思います。高齢者や妊婦さんの身体を疑似体験するために身体に重りをつけることがありますよね。

「違い」を認識しあうことが必要ではないでしょうか。平等や対等という姿勢のなかで、個々人の違いをどのように捉えるのか。最初から高齢者・障害者という言い方でくくるのではなく、「身体は連続する」というふうに考えたいですね。

博士論文は、京都盲唖院の建築がどうやって生まれて、どのようにして消えたのかを追いかけるものでした。これからは、学校の資料に限らず、ご存命の盲・聾学校の卒業生やそのご遺族にお会いしてさらにお話をうかがうことを続け、資料を収集・整理することで、京都盲唖院の人々が求めたものはなんだったのか、また日本において京都盲唖院とはなんだったのか、現在の福祉や社会についてどう位置づけられるものなのか、私なりの考えを出したいと思います。

わたしの研究に多大なる影響を与えた先生がいます。わたしは、先生の「学問」に対する姿勢を尊敬しています。それはまるで、学問という名前の海にボートひとつで漕ぎ出して、知から知の海へとまだ見果てぬ港を目指す航海だと、勝手ながら先生の本から感じています。わたしも少しだけでもそうありたいと願っていますが、その旅のなかで、京都盲唖院はほとんど誰も訪れることのない、小さな港なのでしょう。しかし、それはわたしにとって、かけがえのない港なのです。

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  1. ピンバック: (記事全文)「「京都盲唖院」とは?――京都の人々と共にあった“学び”と“生活”の場」 | tomotake kinoshita

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