歴史家ワークショップ「迷える子羊たちのために 論文執筆の処方箋」に参加して

上野駅にて

歴史家ワークショップ「迷える子羊たちのために 論文執筆の処方箋」に参加しました。

3名の先生方のトークを挟みながら、オープン・ダイアローグとしてKJ法による意見集約とディスカッションを行うプログラムとなっていた。このプログラムに参加したいと考えた理由は熊谷晋一郎さんが当事者研究で展開されているオープン・ダイアローグを歴史家たちで行ってみるとどんな風景が展開されるのだろうかという関心に由来するものだった。たとえば他の歴史学者がどのような方法で研究をしていて、どんな問題を抱えているのか、それは解決方法を持っているのだろうか。また、わたしは歴史学をご専門とされる方々が集まってディスカッションする場を見たときにどんな気持ちになるのだろうか。それは予想がつかないことだった。

プログラムにあったトークはそれぞれ興味深いものだった。たとえば論文計画、冷水シャワー、瞑想、散歩を介してメンタルを整えるという話は興味深く、共感するものがあった。瞑想はしないのだが。身体を動かすことによって論文で凝り固まった身体をセルフ・マッサージするような効果はあると確信している。アウトライナーの話も普段からWorkFlowyを使っているものとしては、既知の事柄だったが話を伺うと既知の内容を強化できる効果が感じられた。

メインとなるオープン・ダイアローグでは、KJ法によって6名前後のグループで会話しながら模造紙にポストイットで悩みを書いて分類していく方法を採用した。みなさんのご意見をうかがっていると、執筆を行うための具体的な技術とメンタル(モチベーション)は表裏一体の構造になっていることが感じられる。たとえば、論文の構成、注釈のボリュームといった執筆上での細かい悩みがある一方、研究に対する自信や不安といった要素が見え隠れしている。

個人的に興味深かった傾向は2つあり、ひとつは史料と先行研究の配分、リサーチと執筆の時間といった時間の配分。これはわたしも感じることで、〆切をにらみながらトップダウン・ボトムアップを繰り返しつつ論文を構成していき、リサーチで得られたことをさらに盛り込んでいくスタイルを採用している。リサーチとは本質的に終わりはない行為なのであって、〆切に沿いながらリサーチの見切りをつけている。他のみなさんはどう対応されているだろうか?
もうひとつが書きかけの論文を他人に見せるタイミングについて。多くは論文のコンテクストはゼミで見せるはずだが、そうではないところもあるということだろうか?(わたしのゼミでは見せていた) ある方が「先生からまだ書けていない時に相談に来なさい」と言われていることを紹介しており、いい先生だなと感じた。

このような歴史学特有の研究方法における論文執筆は注意すべきところだろう。たとえば、史料と既往研究のレビューというリサーチと論文執筆の反復作業においてどのような問題が起きていて、どう接してきただろうか。また、ワークショップでは女性研究者をめぐるパワハラ、アカハラの実例についても語られた。ネット上でこの話題を目にすることは残念ながらとても多いが、しかし目の前で実際に聞くとこの問題はとても身近で、無関係でいることは絶対にできない。そういう中でわたしに何ができるだろうか。それに、大学教員から歴史教育の方法、アカデミック・ライティングの指導方法についても言及があった。このようにそれぞれの問題意識が枝分かれしていくような展開があり、これからは今回判明した問題意識に照準を合わせることも次のテーマになりうると感じた。今後の動向が楽しみだ。

ディスカッションでは何よりも参加者がご専門とされる研究対象は共通していなかったが、コメントに合いの手が入ったりして、「連帯感」が形成されていた。この連帯感はみなさん、心強かったのではないだろうか。熊谷さん曰く「自立とは依存先を増やすこと」であろうが、歴史家が集まって語り合うコミュニティづくりは重要だと感じた。

最後に、わたしが皆さんのディスカッションで得られた気づきとは「論文を書くというのは、既往研究、史料、亡くなっていった人たちに支えられて初めて達成できることなのだ」という普遍的なことだった。論文を書く動機や条件はもちろん著者ごとに異なるが、その要素はある程度要約できるかもしれない。たとえば、仕事として任された、おもしろい着想があった、史料との出会いがインスピレーションになった、既往研究を読んでこれを追いかけたくなった、などがあげられるだろう。けれども、それ以前になぜ、わたしは今ここで論文を書いているのか。史料なしに書くことはできるのか。パソコンなしで論文を書くことができるのか。果てには美味しいコーヒー豆をつくってくれる農園の人たちなしで論文を書くことができるのか。論文を書くことは決して目先の作業などではなく、果てしなく、認識することのできない、世界の広がりの真っ只中にある、わたしたちの生そのものだ。
動機こそ違えど、論文を書くという行為の地盤には太古からまさにこのときの時間の蓄積のうえに成り立っていることを実感する機会でもあった。

懇親会のとき、ずーっと机に座ってパソコンでタイプしている方がいらした。会話の輪に加わらずに。もしかするとすごくいいアイディアが閃いてその場で書いていたのかもしれない。

とても有意義なワークショップだった。

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