京都盲唖院関係資料の展示について

東京国立博物館にて平成30年 新指定 国宝・重要文化財の展示を見た。毎年度の初めにこの展示が開催されているが、今年はいつもより気分が違った。今年は京都盲唖院関係資料が一括で重文指定されたことより、資料の一部が展示されているからだ。

それに、円山応挙の紙本墨画淡彩瀑布図 (相国寺)も同じところに展示されている。これは画家の田中武さんが博論で言及している作品でもあって、二度目かな?久しぶりに拝見したが、軸を壁から床にL形になるようにしてあるので、瀑布がこちらに立ち向かってくる。この斜め向かいに京都盲唖院の展示があったことにひとつのめぐりあわせをかんじる。応挙と京都盲唖院が同じ場に出会うなんて、もうない。

さて、京都盲唖院の展示構成は以下のように壁には軸3点と扁額、台には古文書、書籍、教材が展示される形式となる。展示については1つ1つの展示物に説明があるので、それを参照していただきたい。以下は蛇足であるが、木下による補足。あわせてお読みいただくことによって理解が深まればと考えています。

壁、右側から。

・日本最初盲唖院扁額
京都盲唖院が京都府庁前に引っ越した後、明治13(1880)年の秋に掲げられたもの。京都の安居嘉兵衛の彫刻になるもので、これ以後、100周年まで京都府立盲学校の正面玄関に掲げられていた(今は掲げられていない)。明治・大正期の盲唖院の玄関前写真にはこの扁額がみえることもある。かつて古河太四郎について研究した岡本稲丸はこの扁額について、登下校する子供たちを見守っていた、と書いていたと記憶するがわたしも同感である。
この扁額がつくられた1880年という年は、盲唖の歴史において重要な出来事がいくつかある。思いつくだけでも、東京における楽善会訓盲院の開校、金沢で聾者の松村精一郎が盲唖教育について建議、また世界ではイタリアで開催されたミラノ会議で手話法による教育が否定されたこと、ヘレン・ケラーの誕生、という年が1880年である。この扁額は京都盲唖院が日本で最初に開かれた盲唖学校であることを示すが、その背後には日本と世界における盲唖教育の様々なフェーズが開かれていたのである。

・発音起源図
今回の展示でもっとも大きな表面積をもつ。遠くからみると主に4つの部分に分類されることに気づく。まず一番上には「発音起源」と右から左に記される。右端には発音起源に関する全体的な説明。その左上には母音とウ行のイラストが口の内部と両手の動きとともに示されており、身体全体で発音をすることが意図されている。ウ行が中心なのは国学の影響があるから。古河太四郎がうまれた古河家は神道に近しく、彼自身は少年時に儒学や和算・洋算を学んでいた。左下に「京都府盲唖院 古河太四郎撰」とあるが、直筆であるとみる。
注目したいのは2点。「発音起源」と揮毫された部分で、これは日焼けや傷みが激しい。他の紙と状態をかなり異にしている。軸装の状態からいっても、当初からこの表装であったとは思われない。ある時期に表装したのだろう(おそらく記録があるかと思う)。もうひとつは口腔内部を表現した絵が斜めになっていること。身体の構造的に、声帯から空気を振動させて発音を行うことを視覚的に説明するには横向きでないと難しいにもかかわらず、斜め向きになっているところが興味深い。これは口と舌の関係を表すことが主眼に置かれたのだろう。また、声帯を軽視しているのではなく、古河による説明によって喉の動きが示されているので絵と文は相互的に補うという関係にある。

・手算法略図
一見したところどのようにして数字を表現するか理解しにくいが、一番上に三人の人物が模擬演技しているところが重要である。このうち右の人物には腹に丸で囲まれた数字があるが、そこに定められた8か所に左右どちらかの手の形を置いて数字を表現する。先にみた発音起源図と概念的には共通しており、それは身体全体で数字を表現するということである。言い換えると、特定の部位に注目しない身体性、有機体としての身体が根底にあった教育を行うのが古河の方法だったのではないか。
これとは別に小さい印刷物が現存し、内容は同一である。キャプションには、これを事前学習用に配布したかのように読めるが、これは肉筆(画家による筆写)なので、実際に配布されたのは小さい印刷物だと想像する。
実際に計算するときは手を叩くことや別の身振りがつくられている。

・京都盲唖院唖生図画成績品
京都盲唖院の唖生による実作を展示したもの。軸の一番上にある表記の「唖生」とは現代でいう聴覚障害児のことをいう。昭和戦前・戦後になると「唖」が消え、「聾」になっていく歴史があることを考えると、この「唖生」という表記には明治のかおりがとても漂っている。キャプションでは生徒名に出身地が書かれていることに着目し、京都盲唖院は各地から生徒が集まっていたことを紹介していたが、全体的には西日本からの入学者が多い。生徒による作品は写実に模写することを心がけた静物画のほか、下には図案模様の模写がある。この模写は重要で、近代の京都画壇における図案・意匠についての注目が京都盲唖院の教育にも反映されていることがわかる。
全体構成に注目すると先に紹介した「発音起源図」と構成が同じことに気づくだろうか。右から左に描かれ、紙が複数貼られる形式であること、日焼けの激しさも類似する。

台の右側から。

・本院編製諸規則
文書類はきわめて数が多いが、その1点が出品された。説明にあるように規則を作るための文書類が綴じられている。罫紙の柱には「京都府」とあり、開校当時の盲唖院が京都府のなかで運営されてきたことを実感できる。
開披されているのは最初の丁だが、槇村正直が付したと思われる朱が欄外にみえる。槇村の筆は扁額にも表れているのだが、大きくしなやかに伸びるのが特徴である。当時の史料をみるとずいぶん怒りっぽい、感情の起伏のあるひとだったらしい、それが表れているのだろうか。槇村の存在がなければ京都盲唖院が開校したかどうか。それほどの重要人物であるが、近代史において槇村自身の史料は限られており、ベールに包まれている。槇村の顕彰碑も京都の金戒光明寺にあったが、第二次世界大戦のときに供出された。

・盲唖教授課業表
課業表は最終的には木版の印刷物としてつくられたが、それを作成する過程でつくられたものか。京都の地名を覚える学習内容も記されているところが京都らしい。開校当時の京都盲唖院の生徒は京都市内だけであり、卒業後の生活における基礎知識も必要とされただろう。町名はそのひとつである。凸字状の京都市街地の地図も現存するが、これも関連する教材。

・木刻凹凸文字(10点)
選ばれている字は「加」「減(ただし、「氵」が「冫」である)」「無」「戌」「亥」「ん」「ホ」「も」「八」「8」である。この展示においてはランダムに選んだのではなくある程度意図的に選んでいるのだろう。たとえば、「戌」「亥」は干支だけでなく、方位や時刻を表す時にも使われるし、「加」「減」は数字とともに加算・除算を意味するのだろうか。これらだけでもヴァリエーションが豊富であることがわかる。「八」だけが凹字になっていることにお気づきだろうか。大きさや全体の意匠などまだまだ研究の余地はある教材。

・自書自感器、真鍮筆
これは、京都府立盲学校と聾学校の開校100周年を記念した『京都府盲聾教育百年史』に図版として掲載されているが、そのときには「線状筆記用器」という名称が仮に付けられていたようだ。厚紙を挟んで真鍮筆で記すと、裏面に書いた字が浮き出るというシンプルな構造であるが、書いたものは左右反転してしまうという欠点はあった(これにたいする教材もある)。
重要なのは、京都盲唖院というのは単なる教育機関ではなく、古河が教材開発を行うための創意工夫の場でもあった。框に針金がグリッド状に張り巡らせてあるが、これをみると古河が盲人にたいしてあまりにも過剰すぎるほどの工夫を凝らしていたことを大内青巒が批判的に指摘していたことを思い出す。大内は仏教者で、東京ではじめて本格的な盲学校となる楽善会訓盲院の院長になった。大内は京都盲唖院を見学しているが、運動場に針金を蚊取り線香のように巻いたものをしつらえて、盲生を運動させている古河の教材をみて、違和感を表明している。針金というものが、盲人の身体にある制限を作り出している。

・渡辺平之甫『古川氏盲唖教育法』
開披されていたのは42-43頁、聾教育の箇所が示されているところ。渡辺は山梨出身、甲府で著名な学校である徽典館を卒業した教員で、最終的には大阪盲唖院に勤務した。
書名にある「古川」とは初代院長の古河太四郎のことであるが、「古川」は誤記ではない。岡本によれば、古河は1889(明治22)年に京都盲唖院を辞職したときは「古河」であったが、1900年に大阪盲唖院の院長となり、没するまで「古川」としていた。その画期については検証が必要であるが、この書籍が出版されたのは古河の没後であるために、この表記になっている。
この書籍の全文は国会図書館デジタルライブラリーにて閲覧可能である。

・京都盲唖院『瞽盲社会史』点字本
・京都盲唖院『瞽盲社会史』原版
『瞽盲社会史』は、江戸時代の盲人社会について検校を中心に編纂したもの。盲唖学校の重要な役割として、点字書籍の出版があった。聾教育の歴史でいえば手話・口話法の歴史のように極めて中核をなすものであり、その出版実態を示すもの。
『瞽盲社会史』は『盲唖教育論 : 附・瞽盲社会史』とセットとしてあったことに留意しておきたい。京都盲唖院には和楽を学ぶ学科(音曲科)があり、江戸時代の盲人の社会を理解することは盲人の生徒において不可欠なことであった。つまり、『瞽盲社会史』は明治における盲教育と接続されるものである。
また、印刷の形態について、厚手の洋紙を使用しているところ、綴じかたによって一般的な書籍と異なり、膨らむようなボリュームであるところを是非ご覧いただきたい。これが点字本というメディアの物理的な特徴であろう。
この書籍の全文は国会図書館デジタルライブラリーにて閲覧可能である。

・アイデアル・ブレイル・タイプライター
昭和初期のタイプライター。アイデアルはもちろん、idealを意味するが、「愛である」つまり盲人への愛というものもある(冗談です)。わたしが研究対象としているのは主に明治ということもあり、正直、この展示は深く注目してこなかったことを反省した。よくみるとタイプライターの構成が簡素になっており、こうして展示品をみるとポータビリティがある。同窓会を通じて販売されたということは盲人のあいだで一定の評価があったということであろうか。
この機械のプレートが英語になっているためか、たまたま会場にいあわせた外国人たちはこれに注目していた。。

ところで、本館の1階、15室にはこの古写真が展示されている。

福田作太郎(重固)の写真。盲人の子孫でもあり、文久遣欧使節としてヨーロッパ各国を訪問し、指文字の情報を持ち帰った人物。こちらもあわせてごらんください。

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