加藤康昭『日本盲人社会史研究』(592-593頁)には葛原勾当(1812-1882)の記述があります。葛原は現在の広島県福山市の出身、幕末から明治を生きた盲人で検校になった人物です。わたし自身は加藤の本によって葛原を知りましたが、葛原のユニークな面として、木製活字を使った日記があります(上の画像)。その日記は大正4年に翻刻され、さらには小倉豊文(1899-1996)によって校訂され、出版されています。

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この日記では墨字を使った部分と木製活字を使った部分があります。墨字は口述筆記とされていますが、それとは別に葛原本人が木製活字を使って、いろはを一字ごとに彫ったものと数字のスタンプがあり、これを捺すことによって日記を作っていました。その用具は「葛原勾当日記印刷用具 (広島県重要文化財)」として蓮乗院が保管しているといいます。

3歳で失明した葛原はどのようにこの活字を認識したのでしょうか。小倉による解説「木活字とその使用法」よれば、それは天保七年にはつくられ、活字そのものの右、左、背面側に横線が刻まれてあり、これにふれることによって認識していたといいます。小倉の説明(372-373頁)をわたしが口絵をもとにまとめると以下のようになります。

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平仮名はいろは順になっていて、左右の側面に横線がひいてあり、これによって認識していたといいます。たとえば、「ね」は右側面の横線が3、左側面が6ということになります。
数字は、1から5までは右側面に数字の分だけ横線を刻み、6から10までは左側面に横線を1から5まで刻んであるといいます。つまり、6だと左側面に横線が1つあるということになります。「正」は左、右、背面に横線「一」があり、「月」は背面に「二」、「日」は背面に「三」、「同」は背面に横線が4本だといいます。
これを実際に捺すときは箱におさまっている罫枠を紙に留めてその隙間に捺印していくといいます(下の画像、元は日記の口絵より)。

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小倉は葛原のこの活字は京都に滞在していたときに活字を手にし、これにヒントを得て自分が使えるように手を加えたのではないかと推測しています。その根拠として、活字の部分は手慣れた彫り方なのに対し、横線の部分は雑がみられるからだとします。また、葛原は自邸を設計したらしく、加藤の本にはこう書いてあります。

その住家の設計もみずから黍殻(きびがら)で完全な模型を組み立てて職人に示したといわれるほどの発明と巧緻の才があり、彼の活字の工夫もこの才能によったものであろう。

小倉も年譜で

弘化二年四月二十三日 自身設計の新宅棟上げ(矢田家の西に隣接、現存、口絵(一)参照)

と書いています。近世に盲人が住宅設計に関わったというのは驚きです。黍殻で何かをつくるというのは民俗関係で馬をみたことはありますが、住宅をつくるというのは見た事がありません。この旧邸は現在は整備されたようですが、葛原文化保存会に問い合わせることでより詳しく分かると思われます。

この日記についての他の説明はこちらをどうぞ。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1996Moji/05/5400.html

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