楽善会と仏教(日本盲教育史研究会)

表紙、武田雄介のインスタレーション(部分) ”mobilis in mobili”展(コーポ北加賀屋)

2013年10月19日(土)、京都市の西陣会館で開催された、日本盲教育史研究会にて「楽善会と仏教」を発表しました。

発表内容は以下のようになります(分かりやすいように加筆しています)。

わたしはこれまで京都盲唖院について研究してきたが、京都盲唖院をより深く理解するためには、東京盲唖学校について理解をしなければいけない、と博士論文を書いていたときから感じていた。京盲文書に東京盲唖学校のひとたちが出てくることがあり、ふたつの学校において知的・人的交流があったことが伺えるからだった。

明治13年に創立したこの学校について理解するための第一歩は、楽善会を理解することにある。明治8年に東京の築地で、盲人教育を行う必要があるということでヘンリー・フォールズ邸にキリスト教徒が集まったとされているが、これがもとになって結成された会である。このエピソードはたいていの二次史料、伝記に載っており、一次史料もあるから信をおいてよい。

ちなみにこの会合は夜まで開催されており、岸田吟香は薄暗い夜道を歩いて帰ったことを述懐している。

これについては、『東京盲学校六十年史』(1935)や中野善達・加藤康昭『わが国特殊教育の成立』(1967,改訂新版1991)で論じられている。どちらもよく調べてあり、特殊教育史の分野ではよく参照されている書籍である。しかし、『わが国特殊教育の成立』の楽善会のパートを読んでいると、違和感が消えなかった。
中野と加藤は、明治9年2月27日に東京府に訓盲所を開くための募金を集めることの許可を願い出て、6月1日に『楽善会慈恵方法』を出したという。これは楽善会が訓盲院を運営したいので寄付をお願いしたいという目的で作ったパンフレットである。二人は会友一覧に注目して以下のように書いている。

「会員の顔ぶれにも注目すべき変化があらわれている。九年六月一日付の前記「楽善会広告」の最後に名を連ねていた会員一五名を挙げてみよう。(・・・中略・・・)当初のキリスト教三名に対し、神道一名、仏教(僧侶および教団に近い立場にあるもの)四名が新たに加わり、キリスト教の影響力が相対的に低下したことを示している。
仏教徒進出の具体的な経緯は不明であるが・・・(後略)」(改訂新版、234頁)

「こうして、明治九年末までには政府の援助を得て、楽善会の基礎はほぼ固まったといってよい。」(改訂新版、237頁)

明治9年には楽善会の形が整っているというが、同年2月に東京府に願い出たときの会友(メンバー)は7名とある。それは岸田吟香、古川正雄、津田仙、中村正直、小松彰、杉浦譲、前島密の7名であるのに、6月に出た『楽善会慈恵方法』とほぼ2倍の15名になっている。
この15名のなかにはキリスト教徒と仏教徒がいるのが特徴である。

キリスト教徒:津田仙、古川正雄、中村正直、岸田吟香
仏教徒:滝谷琢宗、大内青巒、島地黙雷、渥美契縁

すなわち明治9年6月までに仏教徒が加わるかたちになっているが、2月から6月のあいだに急激に会友が増えた経緯について二人は明確な説明をしていない。このあたりに違和感があった。中野・加藤の論述はここで飛躍しているのではないか。

では、もうひとつの文献『東京盲学校六十年史』ではどう書いてあるのか。これは中村正直が書いた楽善会記録に基づいて当時の校長・秋葉馬治(うまじ)が書いたとされる。原本が戦災で失われたということもあり、重要な文献とされる。
この冒頭に年史が時系列で整理されているが、56−58頁に明治9年8月付のどこに学校を建設するか、その地所の選定に関する書類が紹介されている。このときの会友名をみると、先述の7名に山尾庸三が加わっているだけで、8名しか見えない。6月の『楽善会慈恵方法』で15名とあるのだから、残りの7名がまったく出てこないのは不自然である。ちなみに、仏教徒の名前が出てくるのは以下の部分。

「(明治十年)十二月八日 麹町同人社分校に會す、出席者山尾庸三、前島密、中村正直、岸田吟香、大内青巒、島地黙雷と會友外大谷光尊代理香川葆光なり・・・」65頁

明治10年に出てくるのである。秋葉は資料に書いてある以上のことは一切書いておらず、慎重な筆運びである。わたしはこれを読んでも疑問が氷解しなかった。
そこで、中野と加藤に戻ろう。二人が根拠とするのは先述の「楽善会慈恵方法」である。内容の構成は

1、募金広告
2、訓盲院設立の目的
3、募金の受取り方法
4、楽善会規則

になる。原本は6か所の研究機関で7冊の所蔵が確認できる。

1、国立国会図書館
2、国立特別支援教育総合研究所
3、東京経済大学附属図書館
4、筑波大学附属図書館
5、東京大学医学図書館
6、東京大学近代日本法政史料センター(2冊分所蔵)

これらをすべて分析すると、 文章、組版、活字が異なっており、5つのヴァージョンを確認することができた。複雑な構造を示しているが、詳しい分析結果は今後発表する。
今回に即していえば、募金広告の日付が「明治9年6月1日」であることは中野・加藤のいうとおりだが、会友の人数が8名とあるものと15名と書かれているものがあった。すなわち、同じ日付でありながら、会友の数が違うのである。これについては史料批判が必要であり、この作業を通じて、仏教徒が楽善会に加わった時期を明らかにできると考えた。

そこで、楽善会が広報に使用していた東京日日新聞を調査すると、仏教徒が明治9年中に楽善会に参加したという記述をみとめることができない。それに、仏教徒の大内自身が楽善会に関して記述したのは明治10年12月を待たなければならない(『明教新誌』より)。

そして、募金広告にはこのような文章がある。

会友が8名の広告文 「我が望を失なはずして善事を行なひ造化主の洪慈大恵に報答(ほうとう)せざるべからず」
会友が15名の広告文「我が望を失なはずして善事を行なひ慈恵の本性美徳をあらはさざるべからず」

「造化主の洪慈大恵(神によるおおくのお恵み)」が「慈恵の本性美徳(慈恵の本性・美徳)」となっている。「造化主」はキリスト教でも仏教でも使う単語だが、これを慈善の本性と美徳と書き換えることで、宗教の色彩が弱められている。
この時期はキリスト教の布教が政府によって認められ、仏教徒が強い警戒をしていた。とりわけ、大内青巒は尊皇奉仏を旨とするように、キリスト教に対する警戒心が高い人物であった。この背景をもとにこの部分を読むと「造化主」が何を指すのか、おのずから議論になるだろう。当事者の信仰する宗教によって「造化主」が何を指すのか変わるからだ。「造化主」のことばが変更された背景にはこの解釈をめぐって論議があった、あるいは会友同士の衝突を避ける意図があったのではないか。

ここから、わたしたちはひとつの結論にいたることができる。『楽善会慈恵方法』は7冊の所蔵が確認でき、5つのヴァージョンに分けることができる。その広告をみると、日付が同一であるにも関わらず、会友の人数が8名と15名と矛盾している。新聞記事、『東京盲学校六十年史』、大内青巒自身の記述の時期と照応させると、明治9年6月1日当時は8名だったと考えられる。したがって、会友が15名となり、楽善会が形を整ったのは明治10年末を待たなければならない。
中野と加藤が明治9年に楽善会が整ったと記述した原因は、『楽善会慈恵方法』の史料批判を欠いていたからである。

また、本発表では大内青巒が訓盲院長に就任していた時期の写真も呈示した。

でも、同時に以下の疑問も生まれるだろう。なぜ『楽善会慈恵方法』ではこのような記載になっているのだろうか。単なる間違いなのか、それとも意図的なものなのか。わたしはその見通しをもっているが、もう少し醸成して発表してみたい。

ご意見・ご批判をお待ちしております。

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