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2009-12 journals

イメージとイメージのあいだを歩いて
2009-12-31(Jeudi)
今年見た展覧会で印象に残ったものは以下か。
順位をつけているが、あくまでも暫定的なものにすぎないが、1位の「道楽絵はがき」展は見せ方も、内容も印象に残るものだった。2位の「ヴィデオを見ながら」は最初のウォーホルの映像をみせるやり方、度肝をぬかれた。川村記念美術館もいい展示。岸田劉生の麗子像、とても愛くるしい。
どれも大変勉強になった。

1位 道楽絵はがき−コレクターたちの粋すぎた世界−(大津市歴史博物館) 
2位 ヴィデオを見ながら(東京国立近代美術館)
3位 大乱歩展(神奈川近代文学館)
4位 鈴木理策展(ギャラリー小柳)
5位 狩野派の世界(静岡県立美術館)
6位 医学と芸術展(森美術館) 
7位 画家の眼差し、レンズの眼(神奈川県立近代美術館 葉山)
8位 英一蝶展(板橋区立美術館)
9位 狩野派―400年の栄華―(栃木県立博物館)
10位 百鬼夜行の世界(国立歴史民族博物館)
11位 北川原コレクション展(神奈川県立近代美術館 鎌倉別館)
12位 「4つの物語」 コレクションと日本近代美術(川村記念美術館)
13位 生誕170年記念 楊洲周延展(太田記念美術館)
14位 江戸時代の世界図遊覧 ―南波・秋岡・池長が集めた世界図―(神戸市立博物館)
15位 幟旗展(松濤美術館)
16位 かたちは、うつる―国立西洋美術館所蔵版画展(国立西洋美術館)
17位 サントリー美術館 美しきアジアの玉手箱 シアトル美術館所蔵 日本・東洋美術名品展(サントリー美術館)
18位 伊勢神宮と神々の美術展(東京国立博物館)
19位 皇室の名宝−日本美の華(東京国立博物館)

来年、なにがみられるのか楽しみにしつつ、2009年さようなら。
2009年、出会った人も、永遠に別れた人も、みんなありがとう。
2010年もいい年になりますように。


2009年 12月 31日(木) 23時36分16秒
己丑の年 師走 三十一日 庚戌の日
子の刻 二つ

木下羊三のこと
2009-12-29(Mardi)
わたしの四代前にあたり、「大船山風穴会社」を興したのが、木下羊三(きのした・ようぞう)である。この会社は現存しないが、養蚕の蚕種、まあ蚕の卵のことであるがこれを保管する会社であり、その記事が出てきた。もう去年のことなんだけど、わたしは知らなかった(養蚕をしていたことだけしか知らず)。父と祖父は知っていたけれど。


「広報たけた」2008年1月号より
http://www2.city.taketa.oita.jp/seikatsu/koho/index2.html

会社もだけど、風穴を発見したという内容がおもしろい。富士の風穴はよくしられているが、九重山の風穴を探すなんて。風穴は、いまも黒岳に行く途中にあるんだけど、岩に囲まれた空間。あまり涼しくはないと感想がもらされているけれど。
http://www.oak.dti.ne.jp/~kanda/kuro%20dake.htm
http://2honhayasi.blog.bbiq.jp/blog/2008/11/post-37b9.html
とはいえ、ここでの写真では氷もみえていて、ひんやりしているのだろう。
http://www1.bbiq.jp/nakao.jp/mountain/gakurokuji.htm

祖父から羊三さんのことを少しきいた。なんでも温厚な人だったそう。実家に少しだけ資料があるのだが、その意味も把握できた。
それにしても、顔あんまり似てないかも。


2009年 12月 29日(火) 19時23分49秒
己丑の年 師走 二十九日 戊申の日
戌の刻 一つ

ライオン・ビル
2009-12-28(Lundi)
前から気になっていたが、地元の北九州にはこんな建築がある。地元の不動産会社がもっているビルのひとつ。今更ではあるが、詳しく撮影する機会があったので以下にアップしてみよう。



たぶん築15-20年ぐらいではないかと思うのだが、ライオンの顔が目をひく。待ち合わせ場所という意味なのだろうか。しかしここで待ち合わせする人はあまりいないように思える。とはいえ、「ライオンの顔のあるところ」といえばどこかすぐわかる、それほど強烈なアイコンなのは確かである。これを作ったときは、お店にとって場所をすぐ覚えてもらえるようにシンボルとして設置したのかもしれない。みてみると、ライオンは怒っていそうな雰囲気ではあるのだが、塗装がはげていたり、口のところに穴が空いていたりと傷んでいる。このままでは取り壊されるかもしれない。
完成当時は一時間ごとにライオンの目が光り、うなり声をあげていたらしい。目が光るのは見た事があると思うのだが、フラッシュのような感じに青い目が点滅していたような気がするが、朧げな記憶しかないのではっきりわからない。うなり声については以下のブログで証言があり、現在は止まっているそう。
http://katteni-kurosaki.blog.so-net.ne.jp/2005-03-21
ライオンの隣にある新古典主義を意識しているような門もおもしろい。中に入っているテナントの人に聞けばわかるのかもしれないが、知っている店がないので、近くのバーで飲んだときに詳しく聞いてみよう。
以下にいろんなアングルから撮影しています。













よくみると、ライオンの顔のよこにはこんなのがある。



デザインが違っていて、幼稚園とか病院に使われそうな優しそうなイメージがあのライオンとは対比するようで、ますます謎である。


2009年 12月 28日(月) 22時33分49秒
己丑の年 師走 二十八日 丁未の日
亥の刻 四つ

批判される事を恐れるな、肯定されることこそ恐れよ
2009-12-21(Lundi)
大晦日じゃないから今年の総括はまだ早いけれど、あとふたつ原稿を書いて、今年の仕事は終わりである。
論文を書くときは、資料に忠実に、データはオリジナルであれ、など気をつけるべきことがあって、一番大切なのは、自分が面白いと思うかどうか、自分の感覚はその対象についてどう反応しているかそれに素直にならなきゃいけない。評価や批判に感謝しつつも、決して批判を必要以上に恐れたり、肯定されたことを良しとしないようにしなければいけない。
とくに、なにか形になるものは、内容が22世紀の人が見てもおもしろいと思うかどうか。わたしの視線の先にはまだ生まれていない22世紀の人たちのうごめきがある。いや、22世紀なんて生温い、ほんとうは31世紀の人がみても驚くものであるかどうかなんて言われるかもしれない。
それはきっとわたしが死ぬまで意識しつづけることだろう。それを「強度」という人が多いのだけど、わたしは「弱度」と言っておきたい。強すぎることはえてして弱すぎるものなのである。歴史のなかで多くのものが消え去っていった、そのもろさの上にわたしたちは立っている。

2009年 12月 21日(月) 00時53分49秒
己丑の年 師走 二十一日 庚子の日
子の刻 四つ

ラメ試論
2009-12-13(Dimanche)
先週で今年の大きな仕事を終えることができた。今年、いろんな目標を立てていたが、これで全て果たしたことになる。来年もまたしっかり頑張りたい。年賀状の準備をそろそろしなければいけないな。
今年は犠牲にしたこともある。例えば、見たい展覧会がいくつかあったが、どうしても!というもの以外は見逃してしまったのもある。アートというのは、ネットや写真ではどうにかなるものではない。実際に見なければ感じないこともすごくある。

たとえば、少し前に梅ラボさんこと梅沢和木さん(http://umelabo.info/)の個展を見に行った。一目みて、目に留まったのは、あのアニメやテレビゲームを切り取ってイメージの海のような空間に配置しなおすような手法ではなくて、ラメだった。これは自分でも意外。きっとアニメキャラやニコニコの弾幕のような表現に惹かれるだろうと思っていたからだ。たまたま在廊していた梅木さんに挨拶して話をうかがってみると、デスクトップでは表現できないものと言っていた。まったくそうだ。狩野派のように金砂を使った画は、その場でなければ見えない。
ラメはフランス語で、Laméとかくもの。金や銀に瞬く糸をそう言うのだが、もうひとつ、和紙やポリエステルフィルム上にアルミニウムを真空蒸着させたものだ。Lameと書けば、刀とか薄片のような意味になるが、イメージが似ている。ファッションデザインやネイルアートなどに用いられているのをわたしたちは見ているだろう。もしくは、Agehaという雑誌でピカピカ光っているもの、キャバ嬢が持っているようなバッグといえばわかるイメージかもしれない。20、30代の女性が好むような表現としてある。女性用化粧品にも使われているものもそのようだ。



この動画で化粧している彼女のネイルをみてほしい、ピカピカ光っていて、分厚くて・・・そして、まぶたにラメを乗せているシーンだが、これだけで印象がまったく違う。まるで、彼女のまぶたがひきはがされて、どこかにいったかのようだ、というと言い過ぎだろうけれど。
ラメは、写真のような止まった、動かない像を切り取るやりかたで表現することはできないことが重要なのだと梅沢さんの作品をみていてその思いを新たにした。その場でしか見えない素材なのである。アニメのキャラクターは写真でも「これはあれだな・・・」気付けるのに対し、ラメはそう思うことができない。理由は簡単、ラメという存在は、光をあてて反射することでより知覚できる存在だからだ。ひとつの光しかみせないような切り取り方、それが写真であるがそれだとラメの存在そのものが消えていく。
写真の限界について言ってしまったようなので、話を戻そう。ラメはキラキラ光っていて、なにか手に届きそうで、届かないのが重要だと思う。素材感が弱い。それは、焦点を合わせにくいといったほうがいいかもしれない。ラメそのものとわたしの距離は両眼で把握できるが、ラメのなかにあるきらめきに注意すると、そこにある面との距離感が狂ってしまう。その狂いが、身体と外界の差異として表現されていないだろうか。
感覚のずれがあるのではないか? であるならば、「ラメ」をどう定義するか。ふつう、わたしたちは日々寝て、食べて、仕事をし、風呂に入るという日常を過ごしているのだけど、そのなかでラメのような時間を過ごしていないか。ぴったり枠にはまった生活をしているわけではない、そこにあると知覚しているのに、実際に中身をのぞこうとすると、うまく知覚できないような体験。近づこうとすると意思に反して遠のくようなこと − もどかしいようなこと。恋愛やスポーツのように、人と人でなされる意識のやりとりがラメの奥から見える。ハプニングやスリリング、プレッシャーが形象化された存在としてのラメ。緊張するようなことがあって冷や汗をかいたりするように。
あるいは − 見た目はふつうの人間なのにのぞきこもうとすると聾であることがわかって、目の色を変えるような人間をわたしが観察したときだろうか。


2009年 12月 13日(日) 16時42分35秒
己丑の年 師走 十三日 壬辰の日
申の刻 四つ

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