tomotake kinoshita old journals

 

2008-10 journals

出会ったら、でも出会わなかったら、
2008-10-30(Jeudi)
いろんなことがあるたびに本当に僕はなにも知らないし、わかっていないなと思う日々。例えば読書をしていて、ある一文に出会ったとき、正直もっと早い時期に出会っていればと思うことがある。「どうしてこんないい文と早く出会わなかったんだろう」と妙に悔しくなるのだ。自分の怠慢というほかないけれど。ニーチェの『人間的、あまりに人間的II』(1879年3月、ちくま学芸文庫)の第二部二四八にはこうある。

視覚の二重性。 ― 君の足もとに突然震動が生じて、鱗状の波が走るのと同じように、人間の眼にもそういう不確実さや曖昧さが突然生じることがある。そういうときわれわれは自問する。これは戦慄だろうか? 微笑だろうか? それともその両方だろうか? と。

これを読んで思い出したのは、なにか衝撃的なシーンをみてしまったときに自分自身の視界がグラグラと揺れ、焦点が微妙に定まらないことなのだけど、例えばどうしても見たくないものを見せられたときとか、ありえないと感じたものがそこに現前しているときに起こる・・・。
ほかにも来月に電送写真についてまた講義することになっているのだが、もちろん前回と同じ内容にする気持ちはさらさらなく、内容をより洗練させようと史料を集め始めたのだが、ちょっと視点を変えるだけでいろいろ出てきて、ああこういうのもあるんだよな、と思い直したり。そこからまた新しいアイディアがポッと浮かんだりする。アイディアがわいても実行できなきゃどうしようもないので、マインドマップ(最近テレビで出てはやっているらしい)風にして書き込みしたりする作業も結構重要な作業。ニュースによれば、小学校でもマインドマップを取り入れた授業をやっていて、軽く驚いたけどいいやり方。
でもこういうことってそんなに重要ではない。ほんとうに大事なのは、他人との付き合い方、関わり方なのだけど、最近は失敗ばかりしているなあ。なんか、コミュニケーションがうまくいかないし、タイミングもよくない。

大学図書館にいったら、書庫が広くなっていて新しい棚に本があった。じっと眺めてみれば戦前の建築関連の書籍も何冊か混じっていたのでつい立ち読み。Clarence Steinの建築論。

今日から寒くなった、今夜から布団を二枚から三枚にしよう。

2008年 10月 30日(木) 23時56分03秒 曇
戊子の年(閏年) 神無月 三十日 癸卯の日
子の刻 二つ

二つの死
2008-10-23(Jeudi)
中村正義の美術館がストリートビューで。いうまでもなく篠原一男先生の住宅建築で唯一公開されているものなのではないかとおもわれる。ちょっとみると首都圏はストリートビューでみられるところが急増しているね。



ハンマースホイ展が建築的におもしろい、と前回書いたけどどうしてかというと、住んでいたアパートで何枚ものの絵を描いているのだが、ハンマースホイが意図したとしか思えない、微妙に空間として成立しえない空間が紛れていて、リアルな光の落差が、我々の存在意義を揺らぐように作用しているようにみえる。どんなアパートでどんな絵を描いていたかは映像でみることができる。これは必見でしょう。
http://www.shizukanaheya.com/room/index.html

バス停に向かう途中、アスファルトの道に緑色の何かがいるのをみつけた。見ればカマキリである。かすかにホワイトのかかったグリーンのオスのようだ。アスファルトを横切ろうとしているところだった。車の通りもあるところなので、近くの草むらまで掴んで持っていこうとしたら、羽をばたつかせて逃げようとした。それでもなお掴もうとしたら左から白いワゴンがやってきて、邪魔になるな、と立ち上がって道の脇によけたら通り過ぎたワゴンがカマキリをものの見事に轢いてしまった。轢かれたカマキリをみたら、手をばたつかせて、顔を僕に向けて、息絶えようとしていた。さすがに生きられないだろう・・・さっきまで元気よく動いていたのに。自分のせいだろうな、と思いつつ。『プライベート・ライアン』のような激しい戦闘シーンのある戦争映画を考えてしまったし、ロシアン・ルーレットの『ディア・ハンター』もフラッシュバックする。なんだかひどく哀しかった。
そのあと渋谷のBunkamuraでミレイ展をみる。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/08_jemillais/index.html
とても女性が多くこういうのが人気なのだな。さて、目玉としてきていた《オフィーリア》もまたカマキリのように死にゆく姿なのだな。ちなみに『日本大百科全書』のミレイの項ではハムレットの「第5幕第7場」としているが、本当は4幕7場のはず。それはさておき、同じ主題を扱ったものとしては、以下に詳しい。
http://www.opheliaofthespirits.com/ophelias-gallery/art/paintings-of-ophelia/
テート・ブリテンの学芸員の説明によれば、先に背景を描き、Siddalというモデルは実際には浴槽に入ってもらった様子を描いたのだそう。
http://url.ms/AzL
このイラストと説明文にもあるように、浴槽の下にランプを置き、暖めていたようだが、風邪をひいたというのは有名な話。
《マリアナ》 1850-51年は、同じ油彩のはずなのに女性の肌、刺繍、ロマネスクを思わせるステンドグラス、植物、蝋燭のテクスチャーが違っているのにちょっと驚いた。

ふらりと入った店でマルクスの人形をみた。
http://www.philosophersguild.com/

2008年 10月 23日(木) 12時34分59秒
戊子の年(閏年) 神無月 二十三日 丙申の日
午の刻 四つ

あっちこっちと。
2008-10-18(Samedi)
日々ばたばたする生活。あれもしなければ、これもしなければ。
結局何ができるのだろう?
なんのために生きてるんだろうとある人に言ったら「やりきるしかないよ、Life goes on」と言われ、そりゃそうだよなあ、それしかないや。結果は現実だし、なんだかんだ言ったって結果が全て。

先日足を運んだ「北斎DNAのゆくえ」展のノートを読み返した。
北斎『拷問の図』(日本浮世絵博物館)は拷問にかけられる女性と男性の対比や燃え盛る木炭の表現はさすが。
北斎『弘法大師修法図』(西新井大師 總持寺)は真っ暗な月夜のなかに狼(?)と鬼、弘法大師がぼうっと浮かんでいるのだが、鬼の大きさ、異様に首の長い狼、下記の画像ではよくみえないが、ダヴィンチを髣髴させる、細やかな草の書き込みが闇夜のなかにまぎれている。
http://www.nishiaraidaishi.or.jp/jp/jihou/koubou_shuho.html
遠近法的に、なにか弘法大師が遠くにみえるが、鬼が反比例して大きくみえるなあ。
抱亭五清『粧い美人図』(摘水軒記念文化振興財団)は蝋纈染めで着物、萩、葛、落款までホワイトゴールドで染めてしまうというはじめてみたタイプの作品。
安田雷洲『赤穂義士報讐図』は思いを果たしたあとの義士たちの表情が印象的。
http://url.ms/Adf
ちなみに吉良は生存説もあるようだが真相は誰もしらない。
http://q.hatena.ne.jp/1219159049
葛飾応為『吉原格子先の図』(太田記念美術館)などなど。
ともあれ、北斎の弟子たちがどのような画を描いたのかつかめたのが収穫でした。

国立近代美術館へ。Avish khebrehzadeh(アヴィシュ・ケブレザデ)という方の出品 《裏庭》 (2005)をみる。
http://www.artfacts.net/index.php/pageType/artistInfo/artist/22572/lang/3
不勉強ながらここではじめてみたけど、紙を三枚重ねて壁にはりつけて、スクリーンにするもの。一枚目は白紙、二枚目に背景を描き、一番上にトレペをおくというしかけになっていた。そこに映像を映し出すと固定された画、つまり庭と映像(動き回る人々)が交じり合うのだが、アニメと違うのはくしゃくしゃになっているトレペのせいで映像も画も一定していない。どう動くか全く読めない。

youtubeでフランシス・ベーコンインタビューの映像をみかける。字幕がなく何を言っているかはわからないので全部は見ないが、ベーコンが動いているということそのものがグッとくる。インタビュアーがDavid Sylvesterなので、本になったもとの映像なのだろうか・・・。
こちらはギャンブルについて語っていると思われるベーコン。


国立西洋美術館でヴィルヘルム・ハンマースホイ展をみる。
建築的に面白い。ハンマースホイは住んでいたアパートの室内外で絵を描いているのだが、それがいろんな角度から、家具やオブジェを変えながら描いているあたりとドアノブをあえて表現しなかったり、椅子の脚が足りなかったり、ピアノの脚が無かったりと空間のマッシヴさが消失しているようにもみえる。
パンフレットには「静寂」と説明されていたが、僕の目には日常のようにみえて、窓から外をみるような感覚で額の中を覗いている。まだ見ていないフェルメール展とあわせてあとでもう一度みにいってみようとおもう。

2008年 10月 18日(土) 16時54分25秒
戊子の年(閏年) 神無月 十八日 辛卯の日
申の刻 四つ

コーヒーを吐け!
2008-10-14(Mardi)
土曜日は朝一番から古本展にいき、松本亦太郎『絵画鑑賞の心理』岩波書店、1926があったので買っていく。そのまま研究会に参加する。

板橋区立美術館で「北斎DNAのゆくえ 北斎一門傑作選」をみる。今手元にメモがないのだが、何回かみた二代目葛飾北斎は技術的に北斎に近いね。「曾根崎心中」の役者で掛軸の表装をそのまま文楽の床本をそのままプリントしたような仕上げは目がくらむようで良い。それはさておき、各絵師たちに「DNA度」なる値をつけ、この絵師は20%とかキャプションしているのがよく理解できない。
ついでに渋谷の「四大嗜好品にみる嗜みの文化史」展にもいく。


入口で春信をパネルにしていた。一人だったので写真とらなかったが。内容は煙草、コーヒー、日本酒、茶の歴史について展示するというもので日本酒のブースで弁当の展示があり、何点かはどこかの博物館でみたことがあるが、この鮑弁当というのは初見だった。どうやって食べるんだろう?貝の一部が皿のようになっているのだろうとおもうのだが。


世界大百科事典の「鮑」の項目に熨斗紙との関係が記述されているところがあるが、
南方熊楠は,アワビが一枚貝で内面の真珠質の部分に光線のぐあいで神仏の像に似た模様が浮き出るのを神秘と見た結果ではないかと論じた。

とあるところがひかれるあたり。光線のぐあいで、と書いてあるが光線の角度だけでなく視点の変化もあるとおもう。それはここ10年ぐらいの建築におけるテクスチャーでよくみかけるようになった。ただ建築の場合は壁や柱の配列でそう見せるものと壁のテクスチャー、二次元的にみせるものに分かれるように思う。前者は石上純也さんの神奈川工科大学工房で、後者だとヘルツォークとド・ムーロンが例だろう。
http://miru-kenchiku.net/kai/top2.html
http://d.hatena.ne.jp/nordicman/20080227/1204056270

神戸にあるUCCコーヒー博物館(http://www.ucc.co.jp/museum/)からコーヒーの歴史にかかわるものが出品されていたが、コーヒーハウスとかの本で知っていたのでサッとみていくだけだったが、この映像に足が止まった。UCCコーヒー博物館で放送している映像らしいが、「コーヒーの鑑定」というのがあって、最近「何かを識別する行為」に夢中になっていることもあって見る。


豆のサイズをふりわけて匂いを確認したあと、こういうふうに丸いテーブルにコーヒーを並べて試飲していくのだが、とにかく速い。高速。テーブルは自動的に回るようになっているらしく、調節することはできないようだ。二人の男が必死にスプーンからコップにあるコーヒーを次々とすすり、ペッと吐き出してまた同じことを繰り返していた。


コーヒーを飲むことはせずに、口に含んで苦味や香りを確認するんだろう、吐くだけである。日本酒とか他の飲み物の製作現場で試飲するときも同じように吐くが、この映像の場合、おのおののサンプルと会話をしている感じはまったくなくて、含んだ瞬間に吐き捨てていて機械的な動きをしているのがおもしろい。

2008年 10月 14日(火) 18時33分30秒 雲後雨
戊子の年(閏年) 神無月 十四日 丁亥の日
酉の刻 四つ

少しだけ散歩
2008-10-7(Mardi)
前からちょっとずつ進めてたんですが、トップページに表示されるランダム画像を何枚か入れ替えました。

最近、ちょっと気になる映画があって、"It Is Fine! Everything Is Fine."(2007)というもの。
http://simplydead.blog66.fc2.com/blog-entry-299.html
や、殊能将之さんの日記で評価されている。ただ、どこの映画館でもみられるわけではなく、クリスピン・グローヴァー本人が登場する巡業興行でないとみられない。前作もそうだがこれもまだ見ていない。どうも身体障害者が登場する映画に関心が強いようだね、ぼくは。
最近鑑賞したものだと"Lady In A Cage"というものを見ている。これは、足の悪い女性が住んでいる家にあるエレベーターに閉じ込められてしまうというもの。故障で動かなくなったエレベーターには格子があって、室内が見渡せるので密室状態ではないのがミソ。
映画関係で知られた町田さんもポッドキャストの53回「平山夢明氏の忘れようとしても思い出せない超怖い映画『不意打ち』」というところで取り上げているみたいです。耳聞こえないので聴けませんが。
http://www.enterjam.com/tokuden.html
youtubeで全てみられるみたいです、Part 10まで。字幕がないので見ていないけど。オープニングでギョッとするシーンがあるので注意。


こんなのもあった。http://www.thehotspotonline.com/eyecandy/70s/B70s1.htm
BOLLYWOODというハリウッドのパクリ、インド映画を作っているところの映画ポスター集なんですが、知らない映画ばかり。なかでは"Bond 303"という007のパクリ映画に興味が沸く。どうも僕はいらんことしているな・・・。

今週からいよいよ東博で大琳派展。出品リストをみると、フリーア美術館にある俵屋宗達『松島図屏風』(本当は松島じゃないらしいけど)は来ていないので、人によっては「大」琳派といえるかどうかは異論があるかもしれない。宗達に限らず、フリーアからは何も出品がないが、交渉が不調だったのだろうか?ファインバーグ・コレクションが何点か来ているのでそれはそれで楽しみだけど。
http://www.asia.si.edu/collections/singleObject.cfm?ObjectId=39375
宗達のがアメリカに渡ったいきさつは以下参照。ちょっと調べたけど、小林文七という人物はおもしろいとおもう。「チャールズ L.フリアー (1854〜1919) とフリアー美術館 − 米国の日本美術コレクションの一例として−」清水義明
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn051.html
故田中一松先生の説に依りますと、宗達の一流現存屏風が五点ある。一つは醍醐寺の 「舞楽屏風」、一つは静嘉堂の「源氏物語屏風」、一つは建仁寺の「風神雷神図屏風」、残りの二つはフリアーの水墨画の「雲龍図屏風」 一双 とこの 「松島図屏風」 であると。

あれ、Freerってフリーア?それともフリアー?ぼくはフリーアだと思ってたけど。
もとはといえば、日文研のサイトから。
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/
ここ、京都の桂というところにあって、バスでずうっと上までいくんだよね。結構離れているんですが、集中できるいい環境でした。野間文庫という医学史コレクションもたいへん充実している。

ジル・ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』の翻訳が出たみたいですね!前にここで「出た」と思い込んで書いたことがあったのですが、書店で出ていないことに気付いてました・・・。ただ、1と2で翻訳者がまるで違いますね、そのあたりどうなっているのでしょう。


2008年 10月 07日(火) 18時30分43秒 晴後曇
戊子の年(閏年) 神無月 七日 庚辰の日
酉の刻 四つ

宛先のない手紙
2008-10-4(Samedi)
石橋健次郎様

拝啓、十月になり、窓からみえる桜からヒラヒラと黄色くなった葉が舞い降りるようになりましたが、いかがおすごしでしょうか。
石橋さん、はじめまして。突然の手紙をお許しください。僕はある聾者です。9月に新宿の初台にあるICCでdumb typeの"S/N"というパフォーマンスの映像上映会があることを知らされ、聾者つまり石橋さんがご出演されるというので見にいったところ、どうしても伝えたいことがありまして、手紙を書いています。
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2008/S_N/index_j.html
http://dumbtype.com/projects/sn/t.html
パフォーマンスの映像で聾者が出演しているからという興味以前に、身体と物の関係という意味で"S/N"をみてみたいという気持ちが強くあったのですが。見る前までは石橋さんが聾者だということに対して懐疑的な自分がいました。本当なのかな、という気持ちがありました。なぜなら、聞こえる人が聾者の役をすることがよくあるからです。酒井法子や豊川悦司のように。
小さなシアターで、"S/N"がスクリーニングされてすぐ、あなたがハイヒールのような靴を手に持ち、四足動物のように両手両足でかろやかに踊っていたシーンが流れていました。僕を誘ってくださった方が隣の席にいて「あれがAlex(石橋さんの役名)」と教えてくれました。ワイシャツに"deaf"とプリントされたシールがあったのがチラリと見えた気もしましたが、そのときはまだ「聾」という感覚はありませんでしたし、顔を伏せているためにまだ存在を十分に感じ取れなかった自分がいました。
程なく、古橋悌二さんが出てこられて、石橋さんに対して口を大きくゆっくりと「なにしてんの?」と問いかけられたシーンがありました。このシーンに大笑いしそうになりました。なぜかは今考えてもよくわかりませんが、KY(クウキヨメナイ)なんじゃないかと思って笑うのを一生懸命、ほんとうに一生懸命こらえました。口を大きくゆっくりあける、というのは僕に対して他者がとる行動パターンのなかに少なからずあります。とくに手話ができない人はそうです。いうまでもありませんが、口を大きくゆっくりあけて話すだけで僕が理解できるかというとそうではありません。リズム感というのが重要なのですよね? 僕は最近、ある人と歩いていた時に僕があまり速く歩くものですから、突然傘の柄にあるフックを腕にかけられて呼び止められたんです。そのとき「はやい!」と言われたのですが、その口のスピードが、とてもリズミカルでした。「は・や・い」という口が、脳裏に刷り込まれてしまいました。口が速いとか遅いとかそういうものではなく、自分の体内にある様々なリズムのどれかと合うような感覚でした。それとスピードは違いますが、石橋さんに声をかける古橋さんの語りは、リズム感があって、あなたを聾者だと強く思わせるものでした。もっというと古橋さんの意識が現出していたのです。この人は聾者だよ、というメッセージ性があったわけです。そういう意味で、はじめて見た、映像のなかでの古橋悌二さんはとても印象的です。
そして、古橋さんからの質問に対して石橋さんが答えている・・・すみません、なんていう台詞だったか今思いだせないのですが、その口ぶりが僕のカテゴリーに侵入してくるようでした。見慣れた口の動きでしたから。見慣れた、というのはいろんな聾者が口をあけて、ぎこちない・・・いや、訓練された不自由な口の動かし方をしているのをみているというシーンを何度も、きっと何千回もみてきたということから来ていますが、それと似たものを石橋さんの口から見たんです。この人は聾者である、と。
ところで、石橋さんのことを他の人がどんなふうに書いているのかちょっと気になりました。そこで、インターネット上での"S/N"評によれば、耳が聞こえている人たちの間では、石橋さんの「声」がとても印象的なのだそうですね。たとえば、そこでは
唖者でゲイである男性の狂ったような叫びから始まり
http://www.kanshin.com/keyword/884480

とあり、かなたでは
Alexが両手に女性の靴をはめ、それを舞台上で高い声を上げながら自分も一緒に、ぎこちなく踊ります。僕は母が身障者の学校で教えていた関係で、耳の不自由な生徒さんも含めて子どもの頃、学園祭で遊んでいたから彼がどうしてそうした声を上げているかすぐに分かることができました。けれど、僕の前に座っていた男性はその声に反応して笑っていた。しかしまもなく、Alexが“聾”であるが故に、そうした声を懸命に出していることを知るのです。
http://www.volteface.jp/archives/51241208.html

こなたでは
最初、耳の聞こえない男性がハイヒールを手に持って
何か叫びながら靴をタップダンスのように鳴らしながら動かしている。
突然、マイクを持った古橋がステージに入ってくる。
「何してんのん?」ととぼけた関西のイントネーションがユーモアを誘う。
彼は耳が聞こえないので上手く喋れない、
それでも何とか古橋にメッセージを伝えようとする。
古橋は観客に向かって彼の言葉を翻訳するように説明する。
彼の服には「DEAF」「HOMOSEXUAL」「MEN」というような文字の書かれたステッカーが貼られている。
http://haruharuy.exblog.jp/9093569/

と、あなたのことが書かれています。なるほど、「声」で石橋さんが聾者だと感じ取るのですね。しかし僕の場合、聾だと気付いたのは、さっきも書いたように古橋さんが声をかけたあたりからです。僕は耳が聞こえませんから、声で相手を知覚することがありません。声で男なのか女なのか、子供なのか、声にひきつけられることがない(声を出している顔にはすごくあっても)。古橋さんが石橋さんを聾者だと意識して声をかけるその姿、それは石橋さんが古橋さんに投影した姿とも読み取れると思いました・・・難しく書いてしまったかもしれません。僕はいろんな場所に出かけ、用事があるとカウンターや切符売り場のお姉さんに用件を伝えようしますけど、紙に書いたのをみせることもあれば、声を出すこともあります。人によっては僕を見つめて手話で話す人もいるし、口を大きくあける人がいて、わからない人は紙を取り出す。そういう身ぶりをする相手をみて、僕は自分が聾者だと自覚するんです。相手あってこそ自分が聾と気付く。つまり、常に日々の一瞬、自分が聾者だというカテゴリーにいることを意識しているわけではないことを意味しているのでしょう。
あなたの声が産み出される身体、聾としての身体は18世紀フランス以前に、動物との比較にあてられてきたことを知っている人は多いでしょう。うなり声、声にならない声と形容されてきました。僕たちは動物ではない人間なんだ、と訴える聾者もいただろうとおもいます。でも、もうすこし自分にひきつけて考えてみると、僕自身は幼少時から発音訓練を受け、日本語「らしい」声を出していますが、しかし当の身体からすれば、身体と声が密着しているはずなのに(声帯で)、どんな声をしているか全くわからないまま声を出しています。これは考えると不思議なことですね。身体と声が乖離しているような感覚です。留守番電話に吹き込んだ自分自身の声が自分のものではないように感じられることを吉見俊哉先生が電話の研究でアンケートかインタビューの方法で明らかにしていましたが、それよりももっと前の出来事で、声を出した瞬間に声があっというまに離れてしまうような感覚です。聾者のなかには、声をまったく出さない人が少なくないことを知っています。店とかでの注文は徹底的に筆談だけという人がいます。そのなかで声を出している僕は奇妙な存在かもしれません。僕に「声を出すなら聾者じゃない」という人もいますから。でも、聾の定義はそんなに大切なのでしょうか。
このように、石橋さんを認識する瞬間、あなたに対する眼差しが他人と僕の間でこんなにイメージが違うんだということがあって、これは絶望すべきなのか、歓喜すべきなのでしょうか。僕の眼前にある世界は一体、どこまで人と共有しているのかという疑問が沸いてくるから、自分のスタンスが見えなかったのです。21世紀、きっと手をとりあえるはずだと思ってはいるものの、いややっぱり無理なんだよ、という自分もどこかに息を潜めていそうな気がします。セックスするとき身体は近くにありますが、女性の喘ぎ声がまったくきこえなくて、そこが遠くに感じられてしまうような背反のようなものです。そんなことをあなたの姿から想像しました。これはなにも聾だけの間ではなくて、イメージを取り扱おうとする人たちのあいだで付きまとう亡霊のようなものでしょうか。
さて、劇は進んで、古橋さんとBubu de la Madeleineさんがテレビ電話のような感覚で話し合うシーンがあって、だんだんとスピード感があがっていって、舞台上で服をぬぎすてて倒れ込んでいく集団のなか、走り抜こうとしてバトンタッチしたあとに倒れ込んでいく身体たちのなかに石橋さんがいますね。頼もしいと思いながらみていました。聾者がここでひとり、混じっているということ事体がdumb typeにとっても世界にとってもとても重要だとおもったからです。
ここでやっぱり、言わなければならないのは、BuBuさんと二人で青暗い空間にいるシーンでしょう。踊ろうとするBuBuさんを拒否し、声を出していくところです。そう、これです。
http://dumbtype.com/projects/sn/Scene/Scene4-2.html
そこで石橋さんは口を小さく動かして、マイクにむかって話していますね。
ふたつのことを思いました。聾そのものの身体からいえば、正常な声を出そうとして大きく口をあけようとするのですけど、石橋さんはそうではありませんでした。背景に字幕があって、あなたが言わんとすることが表示されているらしい。観客はこれを見ればわかるのかもしれませんが、ああいうふうに静かにぼそぼそと話す聾者の身体が、聾からかけ離れていたことがおもしろかった。もし、聾学校であんなふうに話したら、他の聾者は口が読み取れなくて「なんて言ったんだ?」と問いかけ、先生は「え?もっとはっきり言いなさい」と叱るに違いないからです。聾者のレッテルを貼られていながら、あなたのか弱い口ぶりは、聾からどんどん離れていっているのです。それはとても重要です。僕の意識のなかで、あなたのパフォーマンスが、微妙に聾という像を狂わせるものになっていて。
ふたつめですが、ここで石橋さんは"I don't know what you're saying but I know what you mean"「わたしはあなたの言っていることがわからない、でもあなたの言いたいことはわかる。」と語っています。この台詞は、ひょっとしたら ― 古橋さんが作った台詞ではないかもしれないとおもったんですが、どうなんでしょうか?この台詞は常々自分自身が思っていたことだからです。たとえば、はじめていくスーパーやデパートでの会計で「お客様、ポイントカードをお持ちでしょうか」と聞かれますが、そのとき僕は相手の口をちゃんと、というかほとんど見ていない、つまり言っていることがわからないのに言いたいことがわかっちゃって、「いいえ」と首をふってしまうんです。(わからなくて「え?」と問い返したら,相手がカードという手でカードの形をつくって示してくるのでわかる、ということもありますし、前の客にも同じことをきいているのを見て、ああそういうことかとわかることもありますが)。
青暗い空間で、最後に補聴器を取り出してハウリング音を出させますね。どうして石橋さんは補聴器をしているのですか?ぼくは補聴器をしていません。補聴器をすると、声がよくきこえなくなるからなのです。補聴器を装着することで音に惑わされてしまって、自分の位置がよくわからなくなってしまうのですが。
そしてあなたが古橋さんがアァマァアポゥゥウラァアァアァアと口パクで言っている(口パクということは知りませんでした)と唄いながら乗っているゴムボートを引っぱるところが石橋さんのラスト・シーンですね。あれから見かけることはありません。そして、鉢巻きをした高嶺格さんが旗を大きく振り、BUBUさんが性器のあたりから万国旗を手品のように引っ張りだしていったところでこの舞台が終わっていきます。軽い疲労感に襲われつつも、古橋さんの身体にあるHIVという存在がとても身近に感じられたのは、たいへん大きなことでした。
舞台の最後まで、石橋さんは一度も手話を使いませんでしたね。いや、手話を使わなければならないという意味ではなく、反対の意味です。逆に手話ができない聾者がいると、手話を覚えろ、と周りの聾者がいうことがあることを思い出しました。まるで軍隊訓練のようですよね。手話が聾者の言語であり、カルチャーやアイデンティティの面で重要なものであることは、たとえば砂田アトムさんのサイト(http://www.deaf-atom.com/)がよく示しているでしょう。でも、そのカルチャーに違和感を感じています。アトムさんがサイトで販売されておられる絵は正直、好感がもてません。欲しいと思いません。これが聾の芸術なんでしょうか、「これが良いの?」と感じてしまいます。でもポシティブに考えると、手が極度に肥大化した絵は我々の眼をとおした世界であるともいえます。それから誤解のないようにいうと、砂田さんの手話は個人的に魅力さを感じています、アトムさんの表現方法なんでしょう。それはそれでいいんでしょう。でも聾者だから、聾文化やアイデンティティが内面にあるかというと、首肯しきれない自分がいることを石橋さんのパフォーマンスから思いました。

ほんとうは、"S/N"はエイズやゲイ、ジェンダーの問題で語られれていますが、石橋さんのことを書こうと思ったわけは、"S/N"に関するテクストはたくさんありますが、聾者がこの演劇について、まったく、僕が知っているかぎりでは何も書いていないのはとても疑問に感じたからです。どうしてでしょうね?
dumb typeに関するものをみても、石橋さんに関する言及では、古橋さんが石橋さんについて語っている一行、1995年9月にされたインタビューでしか知りません。
http://www.assembly-international.net/Interviews/html/teiji%20furuhashi.html
Carol: You have also been collaborating with a deaf artist.

Teiji: Kenjiro Ishibashi. He is a young artist I met about three or four years ago. It was an interesting time because he was just beginning to come out about being gay. It is sometimes hard to identify whether a deaf person is gay or not in Japan. So he was facing all these problems, not the least of which was the fact that Japanese like to pretend that handicapped people do not exist. We met and I think it was the first time that he was really able to talk openly about his feelings as a gay man. Now he is very actively gay.

蛇足ですが、僕がざっと訳すと、以下のようになります。
キャロル:あなたは聾のアーティストとも共演していますね。

古橋悌二:石橋健次郎です。若いアーティストで、3、4年前に出会いました。彼は自分がゲイであることを告白しようとしていたところで興味をひきました。日本では、聾者がゲイかそうでないかをみる(同定する)のが難しいことがあります。それで彼はあらゆる問題に面していたんです、日本人が身体障害者たちは存在しないと装うような現実も少なくなくて。私たちは出会って、はじめて彼はゲイとして感じていることについてオープンに話せたと思うんです。今は彼はすごく前向きにゲイとしてやっています。


それから、映像をみて、字幕が英語だけで字幕が表示されないことがあるというのも石橋さんがどう思っているのかしりたいです。これは映像を担当された高谷史郎さんにおたずねすべきところでしょうか。字幕というのは聾者にとってコミュニケーションしてみようと試みる、ある意味での梯子なのですから。
長くなりました。これから寒くなりますが、どうかくれぐれもご自愛くださいますように。
さようなら。

2008年 10月 04日(土) 14時03分16秒 晴
戊子の年(閏年) 神無月 四日 丁丑の日
未の刻 三つ

大逆転結婚
2008-10-2(Jeudi)
僕の指導教官のスケジュールはネットで公開されているのだが、そのなかに「○○さん大逆転結婚式」とあった。どういう意味だろう、とあとで尋ねてみることにして、備忘録。

夏休み、RSSリーダーを全く見ていなかった。当然ながらいろんなブログがたまってしまっているだろうと思うと怖くて全然開いていなかったのだが、今日、意を決して開く。知り合いもそうでない人も混じっているが、皆それぞれいろんなことを考えていて、人生曼荼羅というか。知らない人で、結構美術館を回っている人がいて(しかも平日にも行っているようだ、どういう仕事をしているんだろう?)レビューはあんまりうまくないが、図版をたくさんスキャンするブログで参考にしている。それをのぞいたら、ちょうど北斎の「鳥羽絵集」があったので、引用させていただく。「写実というよりは声のイメージをつかもうとしたようにも見える。」と書いたところが以下のもの。



佐々木さんのブログをみたが、なんだろうなこの寂れたところは・・・。保護されているところがある一方でこのように棄てられた寺院(?)もあるわけで。
http://naruaki.jugem.cc/?eid=1910

慶應の鈴木先生のブログをみる、読書量、論文の読みこなしがとても参考になる。こうありたいものだ。

2008年 10月 02日(木) 22時31分03秒 晴
戊子の年(閏年) 神無月 二日 乙亥の日
亥の刻 四つ

情動の反動
2008-10-1(Mercredi)

何気なくテレビをつけながら作業をしていたら歌舞伎をやっていた。それも勘三郎の「夏祭浪花鑑」ベルリン公演を通しで。これの文楽がすごく好きだが、歌舞伎はみたことがなかった。字幕がないので台詞がわからないのだが、身ぶりからしてどうも大体ストーリーは同じらしい。
照明が凝っていて、和蝋燭を近づけたり遠ざけたりして、白さの強いライトでくっきりと肌をひきたてつつ、ゆらゆら揺れる光が不安定さをつくりだしている。
サアサア斬れ!と舅からけしかけられてもののはずみで軽く斬ってしまい、人殺しー!と叫ぶ舅をおさえる。


「アヽコレ、声が高い、声が高い、声が高ふござります/\、声が高い/\/\。ム、コリヤモウ是非に及ばぬ、毒喰はば皿」と斬り殺してしまうくだりがとても好きなんだよな。もちろん、人を殺してはいけないことは頭でわかっているが、殺さざるを得ない、こうしなければどうしようもないというギリギリの心理描写にひきつけられるものがある。


僕たちも普段、なにかの行為やはずみで気分がガラリと変化してしまうことがあることに気付く舞台でもある。これは顔を傷つけられたあとにムム!とカーッとなって殺しを果たしたあとに何をやったか、これからどうなるかと祭りの囃子とともに反動してくる。「我に返る」という部分だとおもうが、普段の生活でもいえることだけど、このような想像力の欠如のようなものはとても大切ではないかという気がする。



2008年 10月 01日(水) 13時08分22秒 雨時々雲
戊子の年(閏年) 神無月 一日 甲戌の日
未の刻 一つ

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