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2007-11 journals

三徳山三佛寺 (5)
2007-11-29(Jeudi)
朝の7時45分に集合することになっていて、6時に起きることにしていたが寝られなかった。頭は眠い眠いと言っているのに寝られない。
とても不安になってきて、今回の拝観をとりやめようというとてもネガティブな考えが何度も頭をよぎった。とにかく服を着て、荷造りもしてタクシーで宿屋の女将さんの挨拶を受けながら三徳山に向かう。タクシーのなかでも頭がとても眠いのに、目を閉じても眠れないという奇妙な感じ。ハーッとため息をつくと若い運転手さんがミラー越しに僕を見た。

額束に三徳山と書かれた鳥居をとおりすぎたとき、気づいたが、あの鳥居は明神鳥居のかたちをしていたから、中世以降の鳥居なんだろう。まわりに寺らしきものはみえないので、昔はここまで堂宇が広がっていたと考えていいだろう。結構な広さである。僕は見ていないが、ネットによれば三徳山の東側にも鳥居があったらしい。

三徳山の麓について、荷物を持ちながら階段を上り始める。とりあえず輪光院まで行く。玄関でおばさんが掃除をしていて、挨拶をしたら僕だとわかってお待ちしておりましたよと声をかけてもらった。客間らしいところに通されて、机に座ると紙を持ってきて昨日はクッキーをありがとうございましたと書いてくれた。話してわかったが、米田住職の奥様だった。
どういたしまして、と返したあと昨日眠れなくて、とても不安があることを伝えたら、奥様はちっとも困った顔をせずに「ゆっくりあがるから大丈夫ですよー」ととても明るくおっしゃってくださった。それがなんだかありがたくて、ちょっと安心する。
程なくして米田住職がみえて、初対面の挨拶をする。茂木健一郎さんのブログにお顔がみえるが、そのとおり、闊達な人だという印象。昨晩眠れなかったんですよ、と伝えたら「大丈夫ですよ。今日は天気もいいですから、よくみえるでしょう。」と笑ってくださった。その笑顔をみて、また安心してしまった。

副住職の良範さんのご案内で三佛寺に移動して、他の拝観者とも初対面する。軽く挨拶したあとお話したら、お二人とも昨晩は眠れたそう。そのあと執事次長の良順さんから着替えてくださいとのことで二階で作務衣に着替える。作務衣って僧が作務のときに着るものではじめて着るけど、なんか甚平が冬用になったみたいな感じ。その場にいたけど、なんだかうまく頭が回らず、動作が遅いことが自分でも分かる。大丈夫かなと思いつつ目を閉じていていると眠ってしまいそう。住職たちは拝観準備が完了したらしく、仮本堂に移動する。
メンバーは、僕たち3人の拝観者に加え、三徳山の方々が8人。みなさん結袈裟に頭巾をしている。だいたいのイメージは引用だがこんな感じである。


(日本大百科全書「山伏」より引用)


ただ、金剛杖は持っていなかった。また、イラストにはないが、尻のところに引敷(ひっしき)という、動物の皮で作られたポータブルの座布団を皆さんつけていた。これについては以下にあるサイトの一番下を見てほしい。
http://www.ubasoku.jp/presentation/clothes.htm
とくに結袈裟は修験道独特のもので、梵天袈裟ともいう。梵天というのはあのフワフワしたウニみたいな形をしたもの。房ともいうようだ。良範さんが先ほど袈裟をしていたように見えたので、修験道は両方するのかなと思ったり。

仮本堂には、大壇が目の前にあって、その奥には須弥壇。壇上には法具がおかれており、米田住職がお祈りをはじめる。塗香器、洒水器に散杖があって、仏様をむかえるための準備をされていた。散杖から水を飛ばす動作や器を杖の先でもちながら三回礼をする動作が不思議でじっとみながら今回の無事を祈る。他の二人をみると、目を閉じていたのだが、僕が目を閉じるとまわりのことがわからなくなるから、開けているしかないんだよね。
その過程で塗香が出てきて、体にすりこむように指示される。口にくわえているとちょっとスパイス気味で奇妙な感じで頭が少しさめてくるような感じ。もうひとつ、植物系の木の枝のようなものが出てきたがこれがピリリとしたものでさわやかな味。
うまく頭が回らないが、今回どうか無事終わりますようにという気持ちでいっぱいだった。お経を唱えているとき、皆さんが手相を結び、錫杖をふっていた。これは簡単にいうと音を出すことで悪いのを追い払うのだが、その輪と輪がぶつかりあってくるのが見えるととたんに音が自分の頭上にひろがってくる。法要の祈願文のようなものを読み上げたあと、いよいよ出発。

住職を中心に昨日歩いていった道を上って行く。昨日上ったから道は鮮明に覚えているが、体調が昨日と違うので慎重に体を動かしていく・・・。かずら坂の前にある稲荷さんのところで祈祷をするがそのときの動画がある。
http://www.47news.jp/video/2007/11/post_124.php
行者が法螺貝を吹くと、きこえなくても胸に振動がしてきて、びっくりする。無理もない、もともと獅子の声に喩えているのだから。

一列になって次々とかずら坂、鎖坂を上っていくとき、やっぱりみんな一緒になって上るときのありがたみというか、心強さを感じていた。
鎖をあがって文殊堂へ。戸をあけ、中に入らせていただく。内部の半分まで嵌め殺しの菱格子戸がはまっていて、内陣へは格子をとおしてみるかたち。ここに皆さん座って法要をしていく。そのあと、地蔵堂へ向かうために岩場をとおっていく。地蔵堂でも外陣で法要をした。
次の鐘楼堂で鐘を衝いていくが、ふつう鐘を衝くって鐘の下に立って衝くのだけど、ここでは岩場に立つか、貫に座って衝くかたちになっている。こういう姿勢でやるのは三徳山のほかにどこがあるんだろうか。

衝き終わった人は、牛の背、馬の背をとおるのだけど、後ろがつかえているため途中で一休みしたあと、納経堂につく。ここまでくるともう投入堂は目前でドキドキして、手に少し汗が出る。納経堂、観音堂、元結掛堂でお経を唱えたあと、投入堂のあるところに入ると、多くの人が待っていた。テレビ局、新聞社、一般参拝客・・・・。
不動堂に向かってお経を唱えているあいだ、大丈夫かなという不安がまた頭をよぎるがあまり考えないことにした。

ロッククライマーのおじさんが待っていて、ロープを不動堂近くの大木に巻きつけていた。米田住職が門をあけ、おじさんが一人で投入堂前の崖を登っていく。人が登るのをはじめてみたが、とても簡単そうで、そりゃプロだからそうなんだろうと思ったんだけど、すいすいと登っていく。投入堂と愛染堂のあいだに入って見えなくなったあとロープを残して戻ってきた。
ロープはどうも投入堂と岩、木に巻きつけてあるらしい。ナイロン製らしいロープを渡されて腰に巻きつけるようにと指示される。おじさんの言っていることがわからないので良順さんに説明してもらい、巻きつける。いよいよ投入堂に入るわけだが、僕は実は、ショルダーバッグ(名前なんていうんですかね?)みたいなものにいつも使っている、祖母のお守りを忍ばせていて、もしものことがありませんようにと思うばかりだった。

もう眠気なんて全くなかった。

(6)に続く。

2007年 11月 29日(木) 18時39分36秒
丁亥の年 霜月 二十九日 丁卯の日
酉の刻 四つ

ムッシュー・テスト氏再来
2007-11-28(Mercredi)
わけあって、タグがどのように反映されるかムッシュー・テスト中です。

「身体の選別」というテーマをだいたい考えなければならない局面にありまして、身体検査の歴史をだいたいチェックしましたが、同時にニュースもみている。そのなかのひとつがこの記事。

将軍様の特別な遊戯 '喜び組'の実体を解剖

およそ200〜300人が第1次選考で選抜されたら、この中から100人を選ぶ。彼女たちは平壌の南山病院で精密な身体検査を受ける。この中には産婦人科の検診も含まれている。こうした過程を経た後、約50人が最終的に選抜される。

わざわざ産婦人科の名前をだしているのが妙にひっかかるが、性病の有無などを検査しているのだろうか。身体検査といっても、身長、体重、座高など目にみえるものから視力、聴力、知能など不可視のものまでいろんな検査法があって、それぞれみていくのは結構たいへんかもしれない。といいつつ、だいたいのつかみはOKだろうか。

新百合ケ丘でひとやすみ
2007-11-25(Dimanche)
投入堂の話はひとやすみ。

休日を利用して神谷町の大倉集古館とかCBコレクションにでかける。
http://www.cb-a.jp/
CBコレクションでは石田徹也の作品をみるためだが、今日、香港のクリスティーズで彼の作品二作が出品される。どちらもかなり高価な設定なのだが、一体この基準は・・・。
Lot Number 0521 Sale Number 2382 120,000 - 200,000 Hong Kong dollars
Lot Number 0520 Sale Number 2382 220,000 - 320,000 Hong Kong dollars
神谷町から渋谷に出るには88番の都バスが便利だ。

昨日、新百合ケ丘に行く。中村正義の美術館に行くため以外で行ったことはない。
何度みても素晴らしい。
中村の絵を見たことがない人は絵を見たことがあるとは言えないと思うほど素晴らしい。
インスピレーションにあふれる色使いは自己そのものの破壊に思える。今回みた作品のなかでは「街」という小品が印象にのこる。グレーで彩られた家がいくつも並んでいてその前に腕から下のない人物が闊歩している・・・。連載小説の挿絵もいくつか展示されていて、武智鉄二の小説『うきよのおんな』に絵をつけているのがあるんだけど、小説がちょっとおもしろくて読みふける。検索してみたがみつけられず。館長ののりこさんと話したら、新聞を読まれたらしい、投入堂の話をいろいろする。

帰り、町田で途中下車してラーメンを食う。
http://ramendb.supleks.jp/shop/92
投入堂から帰って以来、ラーメンを何回か食べていて、ここ近年ないラーメン中毒だ。ラーメン二郎に行けばおさまるかもしれないが、たぶんおさまらないだろう。
少し前に横浜のいきつけのラーメン屋でスポーツ新聞をみたら、ミスインターナショナル2007の情報がのっていて、
http://www.miss-international.org/Japanese/final/final_j_07delegates.html
聾者であるフランス代表のSophie Vouzelaudさんがのっていた。他、ベネズエラ代表のVanessa Perettiさんも聾とのことで、手話通訳がいたらしい。
店を出た後、町田ブックオフで道草。雑誌SITE ZERO/ ZERO SITEの二号で出て来た木村敏の本が叩き売り状態だったので買って行く。他、福田和也の本を試しに買ってみた。文学本コーナーに行ったら、新潮の『南総里見八犬伝』がほぼ全巻でそろっていた。
http://www.shinchosha.co.jp/zenshu/hakkenden/index.html
滝沢馬琴は晩年近くに失明しているため、口述で小説を書くが、それはジョヴァンニ・パピーニに共通する箇所で、すなわちこれまで手で文字を編んでいたはずが視覚障害のために口に変わったことで、どのように文体やら何かが変化しているのではないかと思うのが僕の読みなのだけど、このあたりはなぜか文学研究者の人たちにはあまり興味を持たれていないところだとおもう。それはさておき、本には解説もついていて親切なのだが、岩波とかの南総里見八犬伝を細かくチェックしていなかったため購入を見送る。

ヘレン・ケラーに関する文章を読む。活動は女性活動までにおよんでいる。国内で行なった講演やそれに関する感想を俯瞰することは、昭和における特殊教育のかたちをあぶり出している。ある人がケラーを「20世紀のスフィンクス」と形容したのは、その象徴であろうか。
同志社大学に収蔵されているちょっとレアな雑誌にはケラーの写真があるが、なんとサインまで入っていた。筆体はCASIOのGショックみたいなカクカクしたアルファベットで女性さをあまり感じない・・・。

GREEというSNSがあるが、これにこの日記を対応させた。RSSでつないだだけだが、そっちにはコメントが書き込めるらしい。

最近みたニュースで関心をもったもの。
「薬師如来立像:目の裏に「目」 横浜」
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20071123k0000m040089000c.html

豊竹十九大夫さんが廃業したニュース。
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20071125p101.htm
盛り上がり場を語る「切」の一人なのに、こういう事件は・・・。息子さんの新大夫さんは個人的に頑張っているかなと思う人なので、心配だ。

こんな展覧会がある。平櫛田中邸をのぞくチャンス。アトリエ併設らしく、建築としては見逃せないだろう。「アトリエの末裔あるいは未来」
http://www.geidai.ac.jp/labs/denchu/

2007年 11月 25日(日) 19時35分54秒
丁亥の年 霜月 二十五日 癸亥の日
戌の刻 二つ

三徳山三佛寺 (4)
2007-11-24(Samedi)
相撲話。魁皇―白鵬をみて、魁皇はもう引退かなと思う。もはやあのパワフルさはない。

(2)で紹介した資料で僕が知らなかったものがありました。

http://www.pref.tottori.jp/bunka/
より「◆世界遺産暫定一覧表記載資産候補にかかる提案書(資産候補名称:三徳山)」
http://www.pref.tottori.jp/bunka/bunkazai/sekaiisan_mitokusan.pdf
(PDFファイル(3,397kb)  ※ファイルサイズが大きいのでご注意下さい)
8頁に三徳山の行者道の細かいマップあり。
4−5頁は国土地理院のデータをカシミールかなにかで処理しているのだとおもうけど、このデータ欲しい。

さて、話の続き。
麓の階段を登りきったところに受付があって、大人一名の拝観料は400円とある。障害者手帳をみせたら350円とのことなのでお金を支払って、米田住職に挨拶をしておこうと輪光院に行ってみたのだが、あいにく不在とのこと。明日はよろしくお願いします、とお土産のクッキーを渡して、そのまま三佛寺、本堂をみていく。本堂は平成23年まで修復工事をするらしくよくみえない。数年後にみることになるだろう。

そのまま裏側にある受付で襷をいただいたあと、三徳山に向かって歩いて行く。門を潜って、宿入橋をわたった瞬間、僕はあまりにも楽観しすぎていたなと思う。道らしき道はなく、木の根があるだけである。想像以上にハードな道のりがいきなり始まっているのに面食らいながらも登って行く。

十一面観音堂(別名野際稲荷)がまずお見えする。春日造でこけら葺になっている。今はお稲荷だが、狐はみえない。修験道とお稲荷さん、どういう関係にあるんだろう、と思っていると役行者の彫刻が安置されていて、後ろには去年の札が置かれているのをみつける。会釈して手をあわせたあと、また坂を上り始めたら、おばさんたち4人たちと一緒になった。少し話してみたら、鳥取からきたとのことで何回かみえているらしい。横浜からきていることを伝えると、何してるの? ここははじめて?などいろいろ尋ねられながらも一緒に登る。
一人旅の楽しい所はこういうような、たまたま同じ場所にいあわせた人たちと出会えるということにあるのだろう、少し言葉を交わしながら登って行く。
かずら坂をクリアすると、鎖が目の前にあって、懸造になっているお堂がある、これが文殊堂かあーとすぐわかったのだが、懸造をこんなに近い距離でみるのはしばらくだったのでじっとみて、鎖を登り始める。登りきったあと、全景を望めるのだけど、桁行四間に梁桁三間。入母屋。こけら葺。室町時代後期とされる。ほぼお堂の廻り全体に切目縁があるんだけど、崖があるにもかかわらず欄干がなく、落ちればまっかさまであろうか。ああ、これは難儀だと思いながら一周する。慣れてくるかもしれないが、僕の感覚がピリピリしたまま。
そのまま縁に座って景色を眺めるとまだまだ紅葉してしきっていない。内部は非公開らしく、内陣と外陣をみることができない。修復報告書によれば、嵌め殺しの菱格子戸が仕切ってあるらしい。内部の長押裏に墨書きがあるらしいとのことだけど、報告書ではどこにあるのか見つからなかったらしい。なぜだろう?

さあ、今度は地蔵堂だ。
岩場を登るんだけど、手をつかむところがないのでちょっとひやりとしながらも地蔵堂に。文殊堂と同じく桁行四間に梁桁三間。入母屋。こけら葺になっていて。切目縁がついている。大きさもそんなに違わないが、柱が丸柱になっているところがある・・・。年代は文殊堂と同じころだと推定されている。
景色はこっちのほうがよいね。崖も文殊堂に比べたら高くないかも、とはいえ落ちると無傷ではすまない岩場が下にあるけれども。

ここを通り抜けると鐘楼だ。切妻造、こけら葺。鎌倉時代とされるが修理で部材が結構取り替えられているようだ。2トンらしい鐘があるのだが、これを麓からえんえんと運ぶのははっきりいって困難すぎる。そりゃあ、三佛寺は堂宇三十八を数えたこともあるほど勢力を誇った時期があったから、人もたくさんいただろうと思うけど、全員が力をあわせたって、運ぶのは難しい作業のはず。つい田村宗立の『弁慶曳鐘図』を思い出す。



弁慶は三井寺から比叡山まで鐘を引きずって運んだという。でもさ、三徳山に弁慶がきたとしても鐘を運ぶのは絶対無理だろうと思うよ、何しろ道がないもの。だから鐘は鐘楼のある現場で直接鋳造したんじゃないかなと思ってしまうのだけど、鋳鉄の跡がないらしい。でも他に方法はないのだと思うし・・・。鐘を突いて明日うまくいきますようにとお祈りする。

鐘楼を突破すると、牛の背馬の背という、石の上を平均台みたいな感じで歩いていく。ここは両脇が崖になっていて結構難関だったらしいのだけど、片方に岩がのっていてそれほど困難ではないところになっている。でもそれでも危険なのだけど。
渉り終えてすぐ、納経堂がある。さっき下でみたお稲荷さんと同じ春日造、こけら葺であるが年代は違うとされ、確かに造りも違っている。舟肘木がこちらにはあったりと。文殊堂、地蔵堂では気付かなかったが、木肌がかなり外気に曝されている印象が異なっている。乾燥していったというよりも、削り取られている感じ。身舎は塗装したことがあるんだろうか、壁にそれらしい痕がみえる。
修理報告書によれば、江戸末期の慶應三年に屋根の葺替があったのをはじめ、大正、昭和と修理の手が入っているとのこと。

すぐ隣に観音堂がある。ここだけ銅板で葺いている。もともとはこけら葺だったらしい、どういう経過で銅になったかはよくしらないけども入母屋の上がすぐ岩になっていて、ぎりぎりのサイズで建てられているところが面白い。なにか、岩に包まれて、守られて来ている感じがした。脇にある暗い岩場との間を通り過ぎると行為は、胎内から出るとか。

観音堂の次は元結掛堂。一番背が低いので、こけら葺がもっともよくみえるし、後ろにも廻れる。お堂さんには失礼なので、お参りしてから後ろにまわってちょっとみる。お堂の脇に「← 投入堂」と看板が立てられていて、いよいよ投入堂か!とボルテージが高まる。ドキドキしながら、道を進んで、曲がり角で顔をちょっと出すと視野の奥に投入堂がいた。建築に対して、ふつう僕は見つけたときに「あったー」なんて口に出すのだけど、投入堂についてはそうは言わなかった。「あー、居た」と口にしてしまった。なにかかくれんぼしている鬼さんをみつけたみたいな、というほど気楽な気持ちではないが、探して来たものがそこに居たという・・・感傷みたいなものにおそわれた。
投入堂はほんとうにそこにいるのか、確認したくて少しずつ近づいて行く。持って来た双眼鏡をのぞいて、部材をみていく・・・。岩場の肌がみっちりと柱にひっかかっていて、一本の柱が取れてしまえば投入堂もろとも落下してしまいそうな、微妙な調和のもとに成り立っている建築だなとまずは思った。
見れば近づきようのないところにあって・・・確かにどうやって建てたのだろうと多くの建築家は思わざるを得ないものになっているのだけど、さっき見た元結掛堂と観音堂は江戸のものなので、もしかしたらそこに投入堂の木材を置いたり準備する前線基地みたいなのがあったのかもしれないね。というかあそこしかスペースがとれないように思う。
近づくと、不動堂がそこにあるのに気付く。これも春日造でこけら葺きだけど、葺きはだいぶ新しいようにみえる。これも結構な高さにあって、下りの途中ですべるとやばい。雨に濡れた岩場に座って投入堂をみていたら、鳥取からきたというおばさんたと4人もみえてきて、話をして、お菓子をいただいた。
双眼鏡でみていると大岡が書いているように、垂木が繋虹梁から出ているというのは奇妙なディテールだけれど、言われる迄気付かない、思い切りのよさがある。おばさんたちも帰ってしまい、誰もいなくなると何も音がしない。投入堂をみても内部に何かがいそうな気配もまったくない。ただ、そこに居るだけである、投入堂は何をみているのか、何を考えているのか・・・。
もっと近づきたいが、黒い門で封印されていて近づけない。明日だな、と思いながらじっとみていた。

夕方頃に山を下り、宝物殿で年表をチェックする。岡倉覚三が関野貞ときていると書いてある。地勢的に近い大乗寺も岡倉がきている可能性も全くないとはいえない。
正本尊の蔵王権現とも顔合わせをする。前にいた狛犬の劣化は凍ってしまったかのようにみえる。一息のもとに瞬間冷凍されたような肌触り。
そのあとは旅館の温泉でゆっくりしていた。夕飯もおいしくいただき、明日に向けて準備を整えたあと、さあ明日にむけておやすみなさいということで寝床についたとき、問題が起きてしまった。
うつらうつらと眠りかけた時、なんと三徳山の崖から転落する夢をみてしまったのである。ぎゃああという声にならない声をたてて転落する夢から覚めた時、一時間も寝ていないことに気付いたが、汗びっしょりになっていた。あらためて目を閉じるが、眠りに落ちかける瞬間に崖から落ちるような錯覚に襲われ、目が覚めてしまう。
気をとり直して寝ようとしても寝付けない。梟のように目が冴えている・・・。
温泉に入り直したり、体位を変えたりしたものの無駄な努力で、目をとじて何も考えないようにしても、崖が思い浮かんだり、そして終いには投入堂が「おまえには無理だ」「ここには来られまい」というかのように奇妙に歪んで、笑っているようにみえた。足の裏までも汗をかき、心臓は強く動悸している。
建築がこんなに恐ろしくみえたのは初めてのことである。

そして、とうとう朝がきてしまった、そう、全く寝ていないまま投入堂拝観当日を迎えてしまったのである。

(5)につづく

2007年 11月 24日(土) 00時11分07秒
丁亥の年 霜月 二十四日 壬戌の日
子の刻 三つ

三徳山三佛寺 (3)
2007-11-20(Mardi)
(2)で付け忘れましたが、三徳山全景のマップ http://www.town.misasa.tottori.jp/photolib/P01702.jpg

(1)の続き。
特別拝観の申込みをしたあと、9月に三佛寺のウェブサイトをみたら、相当な数の申込みがあったことが記載されていた。応募者たちの熱意を感じたと同時に自分が書いた作文はどのように読まれるのだろうと思っていた。それから暫くはこのウェブサイトの引越し、他の研究進行などがあり、申込みをしたことを忘れるような忙しさで、時折電車の窓から「そういえば、投入堂のことどうなったかな」と思い出すぐらいだった。
そんなとき9月の最終週、親から連絡があって「三徳山三佛寺の拝観者に決まりましたとお寺から連絡をもらったよ」とのこと。申込みをしたことを一切言っていなかったので家族も驚いてはいたようだが、一番驚いたのは自分だと思う。最初は本当かなあと再確認してしまう。

10月初旬から中旬にかけて三佛寺から一枚の黄色い封筒が送られてくる。お手紙には「今回の拝観に選ばれました」「ご縁がありとてもうれしく思っています」「拝観日が11月14日」ということがふられていて、「本当に決まったんだ」と実感がわいてきた。しかし本堂から投入堂までの拝観は危険も伴うからだろう、次の一枚には「何があってもお寺には迷惑をかけない」という内容の誓約書が同封されていた。
もちろん危険な場所ということを承知の上で拝観を申し込んでいたが、実際に誓約書を手にすると恐怖感がヒタヒタとレ・ファニュが書く小説の描写のように感じられてきた。2、3日して誓約書を書き上げると同時に少しずつ進めてきた準備を本格的に始め、三佛寺に関する資料をあらためて読みはじめる。それがここの(2)で取り上げた文献になる。

資料を読み、山岳信仰の視点をもって、麓から頂までの道程をきちんと見ていくことが何よりも大事なのではないかと考えるようになった。
僕が建築を専門としていることもあって、投入堂の建築論として大岡、堀口両氏の論文が煌く2つの星のようにあることを頭に入れておかないといけないが、投入堂が何故、そこにあるのかということもまた重要なのだと思う。それゆえ、投入堂では外に広がる世界がどのようにみえるかということと内部の空間を身体にしみこませる、身体感覚で覚えこませたいという気持ちがますます強くなったように思う。

大岡と堀口が投入堂に行く山道で苦労していることを読んでいたので、緊張しながらも前日に11月の13日に品川からの夜行バスで倉吉入りする。バスにはすでに枕みたいなのが座席に備え付けられていて、空気枕の出番なし。倉吉駅についた頃は高校生らしいグループがたくさん屯していて、結構多いなと思いながらも三朝温泉に向かうバスを待つ。
宿泊は三佛寺内の宿坊にお願いしようと思ったのだが、三朝温泉がいいですよということで桶屋旅館というところに泊まる。
http://homepage2.nifty.com/okeya-ryokan/
男女別の風呂になっていて、時間ごとに交替する、よくある仕組みなんだけど熱い湯のがあってそれが気に入った。ご飯もおいしく、もっと泊まりたかったなあ、プライベートでゆっくりしよう。

明日の参拝は慌しくて、じっくり見る暇もないとわかっているので、今日くまなく見ておこうと決めていた。旅館に荷物をおかせてもらったあと、すぐ無料シャトルバスで三佛寺に向かう。
http://misasa-spa.sblog.jp/event/log/eid52.html
期間限定でバスが走っているとのこと。
窓から天気をみあげると鬱蒼と曇っていて、ポツポツと雨も降りそうなのだけど、やむを得まい。だんだん高度があがり・・・今年九月に京都の神護寺を旅しているが、あのときのようなジワリジワリとした緊張感も伴いながら、すこし靄もかかっている三徳山をみる。終点についたあと、結構急だなと感じながら麓にある階段を上り始めた。

2007年 11月 20日(火) 18時59分33秒
丁亥の年 霜月 二十日 戊午の日
酉の刻 四つ

三徳山三佛寺 (2)
2007-11-19(Lundi)
前回、三佛寺を知ったきっかけと、応募にいたるまでの話を書いた。
次の話を進める前に、僕が事前調査で把握している文献などを出しておこうと思う。建築だけではなく、山岳信仰、修験道のことを頭に入れておくことがどうしても欠かせないと考えるからです。
三徳山三佛寺に関する文献はいろいろあり、全部まとめきれないので、頭に残ったものを引用。

<行った事がない人は>
・三徳山三佛寺全体紹介のビデオがあるので行った事がない人はこれを見るといいでしょう。
http://eyevio.jp/movie/63442

・三徳山文化財一覧
http://www.town.misasa.tottori.jp/site/page/allindex/mitokusan/bunkazai/

・鈴木芳雄さんのブログより
http://fukuhen.lammfromm.jp/2007/04/post_19.html
投入堂QUICKTIME VR版があるのはここだけじゃないかと思う。

<山岳信仰>
・和歌森太郎『山岳宗教の成立と展開』(1975・名著出版)
・桜井徳太郎『山岳宗教と民間信仰の研究』(1976・名著出版)

<修験道>
・宮家準『修験道 山伏の歴史と思想』(1978・教育社)
・和歌森太郎『修験道史研究』(1972・平凡社)
・五来重『修験道入門』(1980・角川書店)

・『修験道歴史民俗論集』(法藏館)というとても魅力的なシリーズが3冊出ているが、恥ずかしながら未見。これを拾い読みするならば、2巻の「山岳信仰・修験道と巫俗 山岳信仰・修験道とシャーマニズム」「修験道と神がかり」が面白そう。

・修験道の教本はどういうものがあるか。国立国会図書館への質問コーナーみたいなところに同じ質問があり、答えを引用することで差し替えたい。

「『修験道辞典』(宮家準編 517p 東京堂出版 1986 <HM2−114>)によりますと、「修験道の儀礼・思想・組織の多くが成立当初から秘伝とされていた」(「序」p.1)ということですが、同書に下記の資料が「修験道典籍一六四点をおさめた修験道の最も基本的な資料集」(p.196)として記載されていますのでご紹介いたします。
『修験道章疏』第1〜3巻 日本大蔵経編纂会編 国書刊行会 2000 <HM241−G40>
*『日本大蔵経』第17,37,38巻所収本(大正5〜8年刊)の複製」
とのこと。

・修験道の法具に関しては、近代デジタルライブラリーにて『修験道法具要解』海浦義観著という解説本が出ている。
もうご存知の人も多いだろうが、以下で検索すれば全文読める。
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

<三徳山三佛寺の活動、建築>
・『山岳宗教史研究叢書 12巻』1979.4 名著出版
収録されている「三徳山の歴史と信仰/徳永職男」は見逃せないだろう。三佛寺の規模に関しては例えば、『伯耆民談記』が引用されているけど、読んではいない。
また、「総説 大山・石鎚と西国修験道 / 宮家準」「伯耆大山と山陰の霊山 大山の歴史と信仰 / 宮家準著」も地方全体の修験道をつかむにあたって良い。

・『三徳山とその周辺』1982 鳥取県立博物館
歴史と文化に関するもの。

・『鳥取県史 第7巻』1976 鳥取県
『山岳宗教史研究叢書 12巻』で知ったが、投入堂参拝がいかに危険であったかという例がある。『化政厳秘録』には1828年8月10日に行者三名のうち一人が転落死している記述がそれである。『因府年表』『鳥府厳秘録』にも三佛寺のことがある。

・川上邦基「三徳寺三仏寺」(『建築世界』須原屋書店 30‐5 1936.05 昭和11年)

三佛寺の建築において一番有名なのがやっぱり投入堂で、昭和に出された重要な論考が二本ある。

・大岡實「藤原時代の規矩(二) 三佛寺投入堂」(『建築史』4-5 吉川弘文館)
・堀口捨己「投入堂」(『古美術』昭和23年1月号 宝雲社)

技術史の大岡はディテールの分析で投入堂は少しずつ増築されたと結論し、建築家の堀口は一気に建築されたと考える。二人の論が衝突しているのは、とくに投入堂の左側(向かって右側)にある庇をめぐる点。全く相反することを言っているわけであるが、どちらもなるほどと思わせる論を展開している。個人的に今回の拝観では堀口のインスピレーションに唸らざるを得なかった。

・大岡實「三徳山三佛寺(上)(下)」『美術史學』(73、75号 昭和18年)
ルポ形式でまとめてある。『美術史學』75号には大乗寺の孔雀の間についても掲載されていて、何か、偶然とはいえないような・・・。

・「建築の解體新書4 テニヲハと納まり」『10+1(Ten plus one)』17号 1999年 INAX出版

・『文化財論叢 3』文化財研究所奈良文化財研究所 2002.12
年輪年代法による国宝三仏寺奥院(投入堂)・納経堂・木彫仏等の年代解明 / 光谷拓実
は最近の研究成果のひとつ。木片の年代推定によって投入堂は平安の建築であることは疑いないことを補強するもの。

・『フリースタイルへの旅--垂直の構築 三仏寺投入堂 崖のうえの美学 水平の構築 西本願寺飛雲閣 光の海をゆく』
「芸術新潮」 55(6) [2004.6]
ごく最近のもの。磯崎新氏による投入堂と西本願寺飛雲閣の文章で日本文学と結びつけながら論考する。

・中谷礼仁「三仏寺投入堂をめぐる幾人もの「誰か」」(『CEL』大阪ガスエネルギー・文化研究所〔編〕 69 [2004.6])
ここからダウンロードできます。
http://www.osakagas.co.jp/cel/back_number/cel_69.htm

・『国宝三佛寺奥院(投入堂)・重要文化財三佛寺納経堂・重要文化財三佛寺地蔵堂・重要文化財三佛寺文殊堂保存修理工事報告書』文化財建造物保存技術協会編著 2006.11
これが僕の一押しで、去年の修復工事の報告書。棟札、内部写真も豊富(モノクロだが)で見逃せない。それぞれのお堂の説明文は建築用語満載で、外部者にはとっつきにくい本ではあるが。
ここでびっくりしたのだが、投入堂の柱は大正時代の修理で交換されているところがあるのだが、ダボがあるかどうか確認していないと書いてあったこと。絶好のチャンスだったのに。でも他の堂にはあることがわかっていることと、石の雰囲気からしてきっとあるんじゃないかと思う。

・窪寺茂「塗装と飾金具、国宝・三仏寺投入堂の荘厳」『奈良文化財研究所紀要』 Vol.2007, (2007. 6) ,p.50- 51
投入堂の塗装に関する研究報告。以下で「投入堂」等と検索すればダウンロードできる。
http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/

<三徳山三佛寺の仏像、美術品>
・川勝政太郎「伯耆三佛寺の古美術」(『史迹と美術』34号(昭和8年))

・長谷川誠「三徳山三仏寺の彫刻」(『仏教芸術』(通号 60)[1966.04] 毎日新聞社 / 仏教芸術学会 編)

・鷲塚泰光「三徳山三仏寺」(『月刊文化財』 (通号 69) [1969.6] 第一法規 / 文化庁文化財部 監修)

・『鳥取県の仏像調査報告書』鳥取県立博物館編 2004.3
正本尊の蔵王権現像が掲載されている。蔵王権現の後姿写真があるのはこれだけかも?

<図版・写真>
・天沼俊一『日本建築史図録 飛鳥・奈良・平安』星野書店 昭和8-14年刊
投入堂ディテールのモノクロ写真が掲載されている。

・土門拳『古寺巡礼 第三集』美術出版社 1968 
投入堂を知っている人ならよく知られた一冊。「投入堂登攀記」を読んでおくと感動もひとしおだろう。三佛寺に関する土門拳の文章をあつめたものは『古寺を訪ねて 東へ西へ』(小学館文庫)がよいかもしれません。

・『三徳山三仏寺』高木啓太郎写真集

・『三徳山三佛寺』米田良中監修 池本喜巳写真集
一部はここで見られる。
http://www.mitokusan.com/photo2.htm
一番新しい写真集だと思う。珍しく東側からの写真がある。ここを撮影したときは苦労されたと思うので池本さんにたずねてみたいところ。このアングルは絵葉書があって三佛寺で売っていたんだけど買うのを忘れてしまった・・・。
ちなみに池本さんは福山雅治と一緒に写真をとっていた植田正治の助手をされていたそう。

・『鳥取県文化財図譜 : 三徳山 三仏寺国宝投入堂』鳥取県教育委員会

ネットで写真を見たい人は、Flickrで"mitokusan" "nageiredo" と検索すれば見られるが、やはり上記の写真集をおすすめしたい。

<投入堂に関して、他の建築>
はてなクエスチョンにはこんな質問がありました。
http://q.hatena.ne.jp/1157198562
「「三徳山投入堂」みたいな、崖っぷちに出来ているお堂、『なぜ、こんな場所に?』という場所に建てられている建造物(神社・仏閣・その他諸々)を探しています。」

答えに取り上げられているなかで大分の羅漢寺は五木寛之が絶賛していた寺院で、確か百寺巡礼でラストに挙げられていたほどだったような。
中国、明代の「懸空寺」は知らなかった。柱の角度が一本一本違っていて施工が適当そうであまり強度がかかってなさそうに見える。それが怖くもありますが。メテオラという答えは妥当なところ。
釈尊寺(布引観音)はリンクが切れていたので以下を。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/3574/nagano.htm
他、はてなクエスチョンになかった建築は以下参照。

・不動院岩屋堂
http://f.nsview.net/p/66493412.html

・龍岩寺奥院礼堂
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/heian1/ryuganji1.htm
http://www.yado.co.jp/kankou/ooita/kunisaki/ryuuganji/ryuuganji.htm

・懸造ならば四方懸造の笠森寺観音堂もあろうか。
http://eyevio.jp/movie/9919

・フランスにはNajacという地方があって、僕が持っているロンリープラネットでは結構高度がありそうな写真なので気になっていたが、以下のサイトで見るとどうなのかな。未見。
http://www.paw.hi-ho.ne.jp/nasubichan/najac.html

<そのほか>
面白いのは
「三徳山投入堂参拝登山路の地質見学」
http://www.okayama-u.ac.jp/user/misasa/honma/index_mtk.htm
地質と地形との深いつながりというあたりが興味深いところ。

茂木健一郎さんの訪問記(BRUTUS(609号)にて紹介されてます)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/11/post_e3ca.html
米田住職とのやりとり。

本年度、早稲田大学の中谷礼仁先生のゼミで投入堂が取り上げられたそうです。
http://d.hatena.ne.jp/ta-nakasemi/20070607
「ジョバンニ・モレッリのいわゆる「耳たぶ理論」でいう、耳たぶに注目することであり、それは創作意識が無意識に捨象する部分である。」という部分がおもしろい。
モレッリに関しては、例えば、岡田温司先生のご著書『芸術と生政治』あるいは「ジョヴァンニ・モレルリの仕事場」『平成3年度科学研究費補助金(総合研究(A))研究成果報告書 鑑賞・消費の視点から見た藝術』でも図版とともに取り上げられるのでそちらを参照すると良い。

話がそれるが、鈴木芳雄さんのブログより投入堂QUICKTIME VR版があることを紹介したが、
(1)で書いた大乗寺もQUICKTIME VR版があるのであわせてみてほしい。
全体のバーチャルツアー
http://www.daijyoji.or.jp/main/virtual/01start.html
孔雀の間 http://museum.daijyoji.or.jp/02kyaku/02_spring/02_01_01qt_day.html
芭蕉の間 http://museum.daijyoji.or.jp/02kyaku/02_spring/02_01_02qt_day.html
山水の間 http://museum.daijyoji.or.jp/02kyaku/02_spring/02_01_03qt_mor.html
朝と夕の2バージョンがあるが、それぞれで金地襖の感触が違うことをみてほしいところ。

<動画>
『NHK国宝への旅 第20巻』日本放送出版協会 1990.2 未見。

『TADAO ANDO 建築家・安藤忠雄』
http://www.amazon.co.jp/dp/B00008NX27
「国宝探訪「断崖に立つ奇跡の造形 鳥取・三仏寺 投入堂」(2002年放送・約30分)」が収録。安藤さんは投入堂内部に入っているそう。未見。

『祈りの山 三徳山 〜国宝・投入堂の謎〜』
http://www.nhk.or.jp/tottori/event/2007/0102.html
斉藤由貴さんといえば、聾者のあいだでは手話通訳士の田中清さんが親戚というトリビア。
http://docile.way-nifty.com/nwes/2005/06/post_1ce0.html

以下youtubeより。



これはたぶんNHKかな?
3:37から投入堂のCGで木材が構築されていくアニメーションが見られる。これは一気に構築されるアニメーションで、大岡實が唱えた増築説に反する内容。番組リポートは以下だろうか。
http://harropage.blog39.fc2.com/blog-entry-794.html



おまけだが、文殊堂をぐるりとまわる動画。三徳山に参拝した皆さんは経験されていると思います。

他に何か面白い資料をご存知の方はメールをお願いします。

2007年 11月 19日(月) 17時56分10秒
丁亥の年 霜月 十九日 丁巳の日
酉の刻 二つ

三徳山三佛寺 (1)
2007-11-17(Samedi)
投入堂との出会いから拝観終了までの気持ちを少し書いてみたいと思う。
今年11月に三徳山三佛寺のホームページにて三佛寺奥院国宝投入堂法要特別拝観を企画したという話を知ったのは7月のまだ暑さも本格的でないときだった。

僕は建築を専攻していて、その流れで投入堂と出会っている。
藤岡道夫、桐敷真次郎らがまとめた「建築史」(市ヶ谷出版社)という教科書があって、「平安時代の仏寺建築」の項目に三佛寺の名前が登場している。文殊堂や地蔵堂は取りあげられておらず、投入堂しか紹介されていないから三佛寺全体を紹介しているわけではない。岩場に建てられたと紹介されるのみで当時は「おお、すごい!」というものより「こういうのがあるのか」という感想だったように思う。三佛寺の投入堂の魅力は、絶壁に投げ入れられたという点だけではなく、三徳山を登山していくプロセスのなかで隠れるように、サプライズ装置として機能していることもあるんじゃないかと思っているので、あの教科書での紹介はちょっと不満が残っている。それはさておき、時間を重ねてジワジワと投入堂に魅せられてゆくことになるのだが、第一印象を正直に告白すればそういうものであった。
今、本棚からその本を引っ張り出してみたが、写真がつけられていた。不動堂があるあたりの写真。これが投入堂のステロタイプを作っているようにもおもう。

フランスから帰国してから日本のことをもっと知りたいと思うようになった。能、狂言がかなり好きでよくみてはいたのだが、それだけが「日本」ではないのはいうまでもない。日本のことを知るって一体どういうことなんだろう? それは日本人のことを見聞したり、日本各地を旅行することではなくて、思想を辿ることなんじゃないかと思う。丸山真男『日本の思想』で、仏教、道教、儒学、国学・・・などが織りなす日本の「かたち」にひかれつつ、同時に東京、京都、奈良国立博物館、美術館、寺院、神社・・・行けるところはできるだけ行くようにした。最初に行く所と次に行く所に相関がなければならないとおもいつつ。
ぼくが惹かれる人物のひとりで、フランスの歴史家、リュシアン・フェーヴルのやり方であるが、地理学と歴史学は常に等しく捉えられるべきなのだ。それはちょうど「五木寛之の百寺巡礼」が放映され、土門拳さんが出されていた仏像の写真を見始めたころでもあろうか。

そんな中でも、木下長宏先生が紹介してくれた兵庫県香住の「大乗寺」は新鮮にうつった。
大乗寺
http://www.daijyoji.or.jp/main/
大乗寺 円山派デジタルミュージアム
http://museum.daijyoji.or.jp/
兵庫県の日本海という辺鄙なところにあるが、山寺ではないし、現在は近くに駅もあるので行くのはわりと簡単なのだが、この寺が抱えている美術鑑賞の問題は難しい。むしろ、日本全体が抱えている美術制度の問題を一点に凝縮しているのが大乗寺なのだと思う。
ここでは円山応挙一門によるこの障壁画165面があって、すべて国重要文化財指定になっているのだが、普通に建具として使われている。もちろん傷がつかないように配慮しつつお寺の生活と調和しているところも素敵で、昼は自然光、夜は蝋燭でみるのも「はかなさ」が満たされていて、何度も行きたいと思う。
とはいえ、残念なことに来年春に収蔵庫に行ってしまい、障壁画は再製画になってしまい、オリジナルは見られなくなってしまうことになっている。投入堂が少しずつ知名度をあげていき、どんなにか魅力的なところであるかを知らない人は少なくなっていると思っているが、大乗寺の障壁画が消え行こうとしていることを多くの人が知らないでいることは僕にとって悲しいことである。

そんなとき、ぼくは三佛寺と再会する。この時点でまだ訪問していない。
大乗寺に何度か行くようになったのをきっかけに、山陰地方の寺院もみてゆこうと思っていた矢先に三佛寺が倉吉にあることを再確認していた。
もちろん行こうと思う寺であったが、いつ行くのがふさわしい時間になるのかななど、タイミングを計りかねていたが、とにかく歴史を確認しようと三佛寺のことを調べ始めた。写真や三佛寺に関する文章をみていくうちに、といってもほとんどが同じような角度から撮影しているものなのだが、だんだんと投入堂と自分は似ているなあと思い始めた。ここのMessageにも書いているが、耳が聞こえないことは音を感じられないこととイコールではなく、ただ、音を別の方法で感じているように思っている。そういう感覚で投入堂をみると・・・とても厳しい地形に建てられていて、建築は人のためにあることと矛盾するかのように人を拒むような表情をしている。それはいうならば、人が声や音をたてた形跡がないということでもあり、静寂や静謐な空間かなあという印象を持つようになった。それがここ一年に感じていたことであり、そんなとき三佛寺のホームページにたまたま「三佛寺奥院国宝投入堂法要特別拝観」という文字があるのを読んだのが、今年の7月になる。

あのお堂か!とすぐ思ったのだが、しかし、ここは観光地ではなく、修行の場なのだから、道のりも厳しいはずで、「すぐ申し込まなくてはいけない」とは思えなかった。・・・迷いがあった。その迷いは恐怖心が生み出す迷いである。
迷いに迷って、この機会を逃せばもう二度とないかもしれないではないか、やれるだけやってみようじゃないかと作文を書き始めたのは8月末が見えて来た頃であった。
すぐ原稿用紙を準備し、投入堂と沈黙について、フランスにある修道院をみた体験や・・・きこえない身体のこと、大乗寺のことも書いて送ったのは、〆切間近の8月31日になる。

その日は『芸術と生政治』やアガンベンのご翻訳で著名な、京都大学の岡田温司先生がご主催されたシンポジウムが開催された日で、投入堂でもし何かあったら、岡田先生に会えるのも今日が最後かも知れないなあとかそんな縁起でもないことを考えたりしたものだった。

2007年 11月 17日(土) 19時19分09秒
丁亥の年 霜月 十七日 乙卯の日
戌の刻 一つ

灰になったら
2007-11-15(Jeudi)
三佛寺投入堂の落慶法要を記念した拝観から帰ってきました。
いろんなことはおいおい書きますが、
僕が死んで灰になった時は投入堂からまいてほしい、と思うほどでした。

2007年 11月 15日(木) 08時35分41秒
丁亥の年 霜月 十五日 癸丑の日
辰の刻 四つ

テレビに出ます
2007-11-12(Lundi)
今日、テレビの取材を受ける。

今週15日の
テレビ朝日「スーパーモーニング」
フジテレビ「とくダネ!」(8:40〜の「得もり」というコーナーで紹介されるそう)
にて放映されるそうです。テレビ朝日さんには手話でインタビューに答えましたが、字幕の関係で日本語対応手話になってしまった。少ししか映らないと思いますが、ぜひご覧ください。

また、新聞は朝日、読売、共同通信から取材を受けました。今週中には掲載されると思いますが、よろしくお願いします。

屈折した人たち
2007-11-11(Dimanche)
僕は耳がきこえないので、人と筆談をすることも多いのだが。それで例えば「コミュニケーション」は一回書いたら次は「コミュ」とかで略することがあるが、人名でたとえばドゥルーズ(Deleuze)をDzと略して書いたりするのを最近知った。それならいいかも。でも聾者同士でDzの話をしたことないんだけどね。

何かとお世話になっている、室井尚先生のブログにこんなことが書いてあった。
http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2007/10/post_e963.html

「美学会は以前とはだいぶ様子が変わってきていて、音楽、映画・映像、現代美術、「視覚文化」論、美術史が主流を占め、いわゆる哲学系の「美学」の発表が極端に少なくなっている。そのこと自体は全然悪いことではなくむしろ歓迎すべきことであるとは思うのだが、それらが割と平板な「ブログラム」と化していて、みんなが細分化した領域を何の疑いもなくカバーし合っているような感じがして、これはどうなんだろうなと思わなくもない。方法論や理論的枠組みそれ自体が問い直され、疑われることなく、何となく共有されたOSのようなものの上でいろんな対象について論じるだけなら、それらは以前の「カント美学」が氾濫していた美学会と結局は同じことなのではないかという気もする。つまりは、昔は「ドイツ系美学」について語ることが「正しいふるまい」であると思われていたのが、たとえば「写真」や「視覚文化」について語ることが「正しいふるまい」であると思われるようになっただけのことであるとしたら、それは結局何も変わっていないことになるからだ。20代の大学院生たちは昔よりも「屈折していない」ような感じがする。つまりは、自分たちがやっていることの本質的な「いかがわしさ」や「うしろめたさ」のようなものは余り感じていないような気がする。彼らはとても知的でまっすぐな好青年たちなのではあるが、その辺りがちょっと物足りないところでもある。」

美学会に出たことはないが、視覚文化の圧倒的な広がりは人文芸術のなかで大きな流れになっていることは知っていた。それと二項対立するとは思わないが、「聴覚文化」というのもあって、キットラー、アドルノ、オング・・・といった人たちがよく引き合いにされる。もちろんグラハム・ベルやトーマス・エジソンも出て来て、ベルのまわりにいた聾者のこともちょっと書かれているが、やっぱり表面的なことに留まっている。そのあたりで僕たちのほうでいえば、「障害学」「ろう文化」研究なんていうのが1990年後半から突如としてあらわれてきたものがあるが、そこからグラハム・ベルをヒントに突破口ひらけないかななんて思う。結局は、聞こえない人や目の見えない人による研究チームがあっても面白いんじゃないかと思うが、もしそういうチームが作られたら、周囲の空間は歪んでみえるかもなあ・・・神秘主義的な感じもあるが。

2007年 11月 11日(日) 10時41分33秒
丁亥の年 霜月 十一日 己酉の日
巳の刻 四つ

手の残像
2007-11-6(Mardi)
昨日、聾の友人とひさしぶりに飲む。
当然ながら、そのときに僕の頭には手話がシフトされるわけで、日本語の感覚が飛んで行くみたいな・・・ガンガン手話で話す。
聾者二人しかいないので、手の動きはお互いにエンジン全開で、しばらくみていると相手の動きが読めてくる。ああ、こういう表現が出るなと頭で文章化されるのではなくて、本能として見える。それを「手話の癖」という言い方を聾はしていると思うが、慣れてくると相手の手の動きが残像としてみえる。剣道でいえば、相手や竹刀の動きが読める、というのに近い。
そういうことを感じていて思い出したが、Hugo Heyrmanというアーティストのサイトにこんなのがある。
http://www.doctorhugo.org/bodylanguagesequences/series1/index.html
一番下にある数字を押すと、人々の動きが永遠にリピートされるというやつだが、ちょっと面白い。

ジャック・ラカンの身振りは魅力的だ。なんか一気に話す感じじゃなくて、「タメ」を感じて・・・オーケストラのよう。実際はフランス語でしゃべっているとおもうが、翻訳・字幕をつけたのはあのロザリンド・クラウス、アネット・ミケルソン、ドゥニ・オリエ。


イタリア美術の阿部真弓さんから教えていただいたのだが、Anton Bragagliaという写真家はそういうことを説明するのに一番いい素材かもしれない。
http://www.noemalab.org/sections/specials/tetcm/2003-04/dinamismo_futurismo/Bragaglia_fotodinamica.html
静止している時間が長いと、それだけ写真に痕が残るのだが、手話でも相手の手がハタと止まったときに、文章化すれば「・・・」「、」「。」「!」みたいな(少し違うかも)区切りを感じている。8月に岡田先生のところであった阿部さんのお話は、Anton Bragagliaだけではなくジョルジュ・デキリコ、フランシス・ベーコンなど聾者からみて面白いアーティストをとりあげていたのが印象に残る。

こんなのをみる。ハイデガーの住宅はもっと見てみたいが、哲学者の本棚を図面にしたものがあったらおもしろいかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071104/1194142948

2007年 11月 06日(火) 20時51分40秒
丁亥の年 霜月 六日 甲辰の日
戌の刻 四つ

テレビはあまり見ないが。
2007-11-5(Lundi)
京都の百万遍知恩寺にて古書展に。
みると、横浜からも常連客が出陣していた。声はかけないのだが、いつも頭にふりかけをかけているおじさんがいて
http://www.ruan.co.jp/men/index.html
明治大正の書籍をいつも厳しい目でセレクトしているのを横目にタルドの「社会法則」とかジェイムズ、パースの本を買って行く。安いのもあれば、「これ高いよ!」と思うものまでいろいろ。数はさすがに多く、日本古典、中国古典ものが目立つ。

ロイターのサイトにパキスタンの非常事態が報道されているのを読む。いまのところ日本ではあまり流れてこない感があるが、ロイターによれば小競り合いも起きているようでイランでの大学生誘拐事件とかと微妙にかかわりそうな話。

今日、遅めの夕飯をしていて、テレビをつけたら明石家さんまと市村正親がジェスチャーで意思疎通していた。なんだと思ったら、長澤まさみと共演しているドラマらしい。
長澤まさみが風呂にいるのをさんまの奥さんがきて、あわてる二人・・・という状況で奥さんに気付かれないようにジェスチャーをするのだが、手話でやればいいのなあ、手話だったらわかんないじゃないかーとか思いながら、つい笑ってしまった。
ここで気付いたが、ぼくはほとんどテレビを見ておらず、とくに気にするものといったら21時からのNHKニュースぐらいか。伊東アナは芯がとおってる感じがして好感がもてる。ミクシイに伊東アナのコミュニティがあるのだが、なんだか恥ずかしくて「このコミュニティに入会する」のボタンを押せない。

休日を利用して、出さなければならないメールを書いて、ネットサーフィンをする。GoogleでRSSリーダーがでていたので試してみた。「はてな」よりは良さそう(はてなは何故かフランス語が文字化けする、テキストエンコーディングしてもだめだった。対策があるのだろうけどよくわかっていない。)パソコンは家でも外でもするのでRSSリーダーはオンラインのがよいと思っていて、はてなとか使っていたがGoogleのも思ったよりよさそうなのでいくつか登録してみる。国際的な話題は、さっき書いたロイターやAP、AFPのところが情報はやそうなので登録している。
ニュースサイトはあれこれ巡回するのもめんどうなので、Googleニュースをカスタマイズして使っているが、記事の並べ方や重要性そのものに統一性がないので(つまり、機械的編集でここがポイント!というのがない。)、結局は紙媒体と新聞社が集まっているサイト。
http://www.47news.jp/
あと、「建築」「聾」「障害者」とか個人的にすぐ知りたい新聞記事はGoogleのニュースアラートやキーワードを登録するなりして、手に入りやすくしてはいる。

2007年 11月 05日(月) 00時39分30秒
丁亥の年 霜月 五日 癸卯の日
子の刻 四つ

信長の背後
2007-11-2(Vendredi)
狩野永徳展に行く。今回の京都訪問の目的のひとつでもあった。
博物館についたら臨時用のテントやコインロッカーがあって、相当数の来館者を見込んでいるようだ。荷物をあずけて、博物館に向かう。
ぼくはなぜか正門じゃなくて南門からいつも入っている、谷口吉生設計のゲートで、ちょっといい眺めのカフェが付属する冷たい空間。
国立博物館ではたいてい特別展と平常展があって、前者はもちろん本館(片山東熊設計 1895年)で、後者は平常展示館(森田慶一設計 1966年)なんだけど、平常展示館はあまりいい建築ではない。森田慶一は大先生だから恐縮だけれども・・・吉田五十八設計の大和文華館のようにガラスを展示空間をうまく融合できたらよいのにと思う。片山は奈良国立博物館本館も設計していて、そのあと新設された新館(1972年)は吉村順三が設計しているけどこっちのほうがお互いのアプローチや動線に違和感がないのとガラスの感じや天井高さもいいとは思うのだけど、やっぱり抑圧されたような雰囲気がまだある。
東京もそうだが、国立博物館においては特別展と平常展が共鳴しあっているところがおもしろいところで、今回狩野永徳が本館にいて、平常展示館には元信や山楽の画、そして長谷川等伯がある。つまり、狩野永徳を囲む画家たちも同時に見ることができるのがみそ。平常展示って見逃しがちだけど、これが一番おもしろいので是非足をのばしておくとよい。

永徳の画ははじめてではないが、これだけまとまった数をみたことはないのでいい整理になる。祖父・元信に忠実な画から自己のオリジナリティを獲得し、死去する直前のものまで。信長、秀吉に多用され、気持ちがすり切れるような日々を送ったであろう絵師の死因は過労死説もあると山本英男氏がカタログでふれていた。
中に入ってすぐ全体を歩き回る。いつもそうしているのだが、入館して全体をみてまわってから、最初にもどってじっくりみていくのが僕のスタイル。とはいえ、ルーヴルとか広すぎるところではいきなり全部歩き回ることはしないし、小さな展覧会だったらそういうことはしないでじっくり一点ずつみていくことに集中することもあるからまちまちなのだが。
今春に大倉集古館(昭和2年 設計:伊東忠太 施工:大倉土木)の「狩野派誕生」展があったことを思い出しておきたい。
http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/shukokan/kanohab.html
栃木県立美術館からのコレクションで、狩野派の源流は関東にあるんです、と説明があったように初代の正信から紹介がされている内容を思い出しながらみる。初代・正信、次代・元信の画を思い起こすと、永徳に「狩野派の遺伝子」がたたき込まれているよなあ。春に正信の水墨画を「水しぶきがまるでミミズのうねりを想起させるような、とても生物的な印象」がすると書いたが、永徳のにもそのような匂いが例えば、若い頃の作とされる「花鳥押絵貼屏風」の木の枝が織りなすリズムで感じる。
二点だけ、印象に残ったものを。「竹図」(58番)で青竹を暗く描くことで、金箔が逆光のように感じられ、こういう金箔の使い方もあったかと思う。「織田信長像」(36番 こちらでみられる http://eitoku.exh.jp/highlight.html)もおもしろい。掛軸になっているのだが、バックにある墨の暗さが信長の白っぽい顔と垂れ目で鋭いキレを示す目を引き立てていると同時に狂気と冷静さがあって・・・つまり、ムンクやベンヤミンのいう「アウラ」を日本画で実現しているかもなあと思った。しかもバックが全体の半分以上あって、信長が鎮座していることよりも主題かもしれない。
おそらく最も印刷されたこともあろう「唐獅子屏風」はとにかく巨大で、屏風というより壁。裏側にも紫地に金で植物(何かは不明)がびっしりと埋め込まれているのが横からみえる。もともと障壁画だったかもしれないことや獅子の位置からして実物はもっと大きかったとされるが、これよりも大きい障壁画があるとするならば、空間や集団を支配する政治的なパワーも付加されただろう。

外に出たら、さっきも言ったように平常展示に行くことを推奨したい。
いまは永徳の弟子だった山楽で、少し前には元信がみられた。山楽の唐獅子図もあって、これもやっぱりもともとの画からカットされているようだし、獅子の後右足のところにも何かがあった痕があり、消されている。
http://www.kyohaku.go.jp/jp/tenji/heijou/kaiga/kinsei/works01.html
獅子の表情からして、その消された痕に目が向かれていて、その先になにがあったのかだけど、もしかしたらもう一匹の獅子か、岩か・・・。

2007年 11月 02日(金) 18時08分36秒
丁亥の年 霜月 二日 庚子の日
酉の刻 三つ

てんのこえ
2007-11-1(Jeudi)
10月は忙しかったけど、去年の借りを返す気持ちで健康に気をつけるつもりで過ごせた。ここにあまり書けなかったけど。
京都を出て、横浜に帰ってきた。一昨日、論文のことでちょっとあれこれ考えあぐねて、自分がやっている仕事って意味あるのかなーとかしょうもないようなことを考えて同志社の新町キャンパス、臨光館(設計:類設計室 竣工:大林組・ミラノ工務店共同企業体 2005年)にしか置いていない資料を閲覧するために行ったら、てんのこえがあった。




頭上から言葉が降ってくることはこういうことなのかと思った。
同志社の建物にこのように新島の言葉が彫られているのだが、この文ははじめて知った。「諸君ヨ、人一人ハ大切ナリ」は、新島が生きた人≠人間だった時代に言われた言葉で、今は人=人間みたいな感じになっているが、当時はそうではなかった。人≠人間という図式は大槻文彦から依っていて、彼は新島と4年しか違わない。新島のいう「人」は現代でいうならば、「個人」というふうにとらえたらいいんじゃないかと僕は思った。
でも、こんな見方もできる。「人一人」はまさしく大槻が定義した「人間」の意味そのものに見える。つまり、「人一人」は人と人の間に一(いち)という漢字があって、その棒が人と人を結びつけている記号となって「人間」となるようにも思える。現代風に訳すと「諸君ヨ、人と人の間は大切なり」か。一(いち)という漢字は数字としての「1」の意味だけではない。たとえば、最近、SITE ZERO/ZERO SITEで柳澤田実さんが木村敏さんを引用していたが、その木村さんの著書『異常の構造』にはそれぞれのものがひとつしかないという個別性が精神病患者の視点では力を失うことについて記述されている。詳しくは本を読んでもらいたいが(おもしろいから)、木村さんは「「一」という概念を自己の生存を保持するために他人との共同生存を可能ならしめるという、人間共同体の基礎理念(p163 異常の根源)」とする。
単純だが、ぼくのような耳がきこえない、障害者でも新島先生からそう言われているような気がして心が躍った。建物全体はこちら。
http://www.dnavi.com/report/rinkoukan/repo1.html

ところで、柳澤さんは僕たち耳が聞こえない人のあいだで論争があった『バベル』のレビューを書いている。
http://site-zero.net/_review/2006_8/
SITE ZEROを見ている聾者はどのくらいいるのか知るべくもないが、柳澤さんは「聾唖の少女は、『バベル』から直接想定される、言葉によるコミュニケーション不全の極めてわかりやすい象徴である。」と書いている。大多数の聾者はこれをどう考えるだろうか?ぼくは聾者の側にいるためか、わかりやすいとはあまり思わない。

同志社でプハー氏と待ち合わせをしていたので、少し待ったら遅れてやってきた。すぬうもいた。またペリエ・ロケットで来たらしい。ペリエ・ロケットのことを何回も説明してもらうが、どういうメカニズムかよくわからない。
すぬうが同志社の女の子をみて「かわいい!」とデレーッとしているので、プハー氏が「じゃあ、ナンパしようか?」という。無理じゃないの、その不気味な黄金仮面じゃあ声をかける前に女の子たちが逃げてしまうと思うのだけど。

プハー氏 曰く「ガソリンの高騰で、将来的には炭酸で動くモーターが普及するだろうよ。」



丁亥の年 霜月 一日 己亥の日
酉の刻 三つ

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