2016年となりました。テレビをつけると有名な社寺に人々が集まっているのが風物詩となっています。明治神宮、伊勢神宮、川崎大師、太宰府天満宮に人がごった返している姿は毎年おなじみのものです。

このニュースをみて思うのは、そもそも「初詣」とは何なのでしょうかということです。それは、いつからどのようなきっかけで行われるようになったのでしょうか。それを明らかにしたすばらしい論文が平山昇「明治期東京における「初詣」の形成過程–鉄道と郊外が生み出した参詣行事」(日本歴史 (691), 60-73, 2005-12  )です。平山は新聞記事と斎藤月岑が編纂した『東都歳事記』を組み合わせた分析によって近世から近代にいたるまでの参詣の変化を明らかにしています。

近世での初詣は徒歩圏で行われていたのですが、郊外の有名な社寺まででかけるということはどうしてなのでしょうか。近世では恵方詣も一般的でした(居住地からその年の歳徳神がいる方向を詣でること)。初詣のように正月三箇日に行うものではありませんでした。むしろ、習慣としてあったのは恵方詣であり、初詣は違和感をもたれていたといいます。ところが、明治20年代になると鉄道の路線にある社寺 — 川崎大師では変化があるといいます。平山は新聞記事より、元旦の川崎大師に多くの参詣者があり、鉄道局は臨時汽車を出していたといいます。
川崎大師で初詣が定着した要因について、明治中期から行楽のついでに参詣するものが増えていったといいます。とくに明治24年の元旦の参詣については、汽車にのって郊外散策も楽しみながら参詣するということが魅力的であったことが新聞記事から伺えるといいます。この時代において、汽車というのは日常の交通手段ではなく、特別なときに乗るものであったことに留意しなければならないでしょう。
さらに近世から郊外をぶらぶらすることの魅力(鈴木「名所記にみる江戸周辺寺社への関心と参詣」『都市周辺の地方史』(1990)より)や、明治20年代の東京の人口増加にともなう地方からの移住者増加があり、市街地の喧噪から離れるために郊外にでかけていたといいます。
要するに、明治5年に開通した品川〜横浜間に位置する川崎大師のロケーションと、行楽的な魅力があったということが川崎大師における初詣の定着化につながったといいます。

明治30年代になると東京から郊外にのびる路線をもつ鉄道会社が参詣客を誘致するようになると指摘します。たとえば、内祖師(甲武鉄道)、西新井大師(東武鉄道)、成田山(成田鉄道)といった具合です。しかし、これらがすべてにぎわっていたのではなく、川崎大師と成田山が客をあつめていたといいます。この違いとして、運賃の値下げなどのサービスや官有鉄道と私鉄による乗客の誘致運動競争があったかどうかということが挙げられるといいます。

明治の終わりになると、多くの鉄道会社が積極的に正月の参詣を宣伝するようになるといいます。それは参詣のみを目的としたものではなく、行楽も含めた参詣であったといいます。たとえば、京浜電車は川崎大師は穴守稲荷にアクセスできるようにすることで回遊ルートを開発していたといいます。大正には、行楽もふくめた初詣はより広がっていたといいます。

鉄道会社による参詣客の誘致は「恵方」と「初詣」の関係を変えてしまったことが、成田鉄道と京浜電鉄の広告から読み取れるといいます。広告では、恵方にあたる年は恵方詣をしてもらいたいが、恵方にあたらない年は初詣として参詣してもらいたいということがわかります。すなわち、毎年ではない恵方のあいだを埋めるものとして初詣があるというわけです。初詣ということばを常用したのは鉄道会社であったといいます。大正になると、「初詣 東京より恵方」というような広告が登場するように、恵方は初詣の付加価値になってしまうといいます。

このように、初詣が郊外の有名寺社に集中するのは、郊外にたいする関心と、鉄道会社による参詣客の誘致が要因であることがわかります。まとめると、初詣は近代日本の都市と郊外の関係をきりむすぶ鉄道という名の科学技術によって誕生したものでした。

さらに平山は2015年12月に『初詣の社会史 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』を刊行しています。

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