画像は祇王寺で撮影した、金子静枝の墓。碑の左に石刻の住宅があり、セットになっている。
2011年7月22日撮影

先月、出版された金子静枝の本について、早くもすばらしい反応があらわれました。「洛中洛外 虫の眼 探訪」という、地元の方のブログで、月ごとに掲載しているといいます。このなかに金子静枝がとりあげられました。

おもしろく読ませていただきました。このブログでは1つ、重要な問題が示唆されているので、ここに記録しておきます。それは、久保田米僊の墓は正確にはどちらなのか、という問題です。というのは、金子は祇王寺に久保田米僊の墓があるので、死んだらここに埋葬してほしいと述べていたことが訃報記事に掲載されています。金子と久保田は友達であったと思われます(書簡などは確認していないが、同じ日出新聞にいたし、その前は滑稽雑誌でも一緒だったので面識はあると考えるのが自然だから)。久保田は金子より先、明治39年に亡くなっています。
それでわたしは早速、祇王寺を訪れ、金子と久保田の墓を確認しています。

ところが、「洛中洛外 虫の眼 探訪」では以下のように指摘されています。

1906年に没した久保田米僊の墓もここにあるというが、本来の墳墓は京都市右京区鳴滝音戸山町の専修寺京都別院にある。ここのは、写真にあるように供養塔である。

わたしが祇王寺を訪問したとき、寺の方に「久保田米僊の墓はどちらですか」と尋ね、「こちらにございます」と案内されていますが、供養塔だったということになります(うかつであった)。そして、久保田米僊のWikipediaをみると専修寺京都別院であると書いてあります。地図をみると、この寺院は祇王寺の東3.2kmとあり、そう遠くないですね。


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わたしはまだ専修寺を訪問していません。これが事実だとすれば、金子静枝は久保田米僊の墓を「誤認」していることになります。でも、祇王寺の前には昭和4年に建立された碑があり、「金子静枝/久保田米僊 墓一町」と彫られています。つまり、二人の墓はここにありますよ、と示されているのです。この碑も間違いであるということなのでしょうか。

どういうことでしょうか? 久保田の墓が昭和4年以降に移されたのでしょうか。あるいは元来、専修寺にあったのか。久保田が亡くなった明治39年頃、金子が何を発言していたか、あるいは久保田の追悼文や追悼会といった行事が行われていないか、注意しておくことにしましょう。

2件のコメント

  1. 久保田米僊の墓について、少々追加しました。
    専修寺京都別院はもともと、河原町二条にあって、そこに久保田米僊の墓もあったようです。
    現在地へ移った経緯と地図を[註6]としてのせました。その当時の墓を調査した寺田の文も載せております。
    http://youryuboku.blog39.fc2.com/blog-entry-111.html#Kubota
    からみていただければ幸いです。

    大野弘

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