2013年11月24日、京都の新島会館にて『『日出新聞記者』金子静枝と明治の京都』の出版祝賀会が開催され、60名ほどの方々にお集まりいただきました。お忙しいところ、どうもありがとうございました。

竹居明男先生のスピーチで、金子静枝のスクラップブックをどのように入手されたのか、その裏話を披露されておられました。先生によれば、もともと古本市をまわる習慣があり、1980年頃に北野天満宮の古本市でスクラップブック8冊のうち5冊を発見されたといいます。内容に関心をもったのですが、しかし、安くない(いくらだったのかは伏せておきましょう)。それで先生は買うかどうかずいぶん迷われ、結局買わずに自宅に戻ったところ、雨がぽつぽつふってきたという。雨がふると古本市は店をたたんでしまうので、雨をみて、やっぱり買う!と家を出て買ったという。あのとき、先生がスクラップブックを買われたことがすべてだった。でなければ、わたしもスクラップブックについて勉強する機会がなかっただろう。竹居先生と一緒にお仕事をしたいと思っていましたが、早くも果たすことができてよかったと思っています。

以下、わたしのスピーチです(当日はすべて記憶して話をしたため、以下の文はまったく同じというわけではありません)。

 みなさま、こんにちは。木下知威と申します。本日はお忙しいところ、お集まりいただき、ありがとうございます。このたび、芸艸堂より金子静枝の本が刊行されましたことをよろこんでおります。

 まず、わたしが金子静枝と出会ったきっかけについてお話しします。わたしは京都盲唖院という、近代の盲人や聾者が通学する学校について研究をしているものです。京都府立盲学校には、京都盲唖院の史料がありますが、そのなかに学校、盲人の音楽家に関する新聞記事の切り抜きがあります。蘊蓄を効かせた文章で思わず読みふけってしまったのですが、名前をみると「金子静枝」とありました。これが最初の出会いで、岸博実先生と「誰だろう?」と金子の話をしたことをよく覚えております。金子は京都盲唖院に寄付をしていますので、この人について明らかにすることは重要だろうと考えました。

 それで、金子がのこしたものがないか調べると、竹居先生が金子の名前のあるスクラップブックをご所蔵でいらっしゃることを知りました。先生にお願いをして、拝見させていただくと、新聞・雑誌の切り抜きが貼られたものでした。これはいつ作られたのか、記事の傾向、切り方、貼り方の特徴を分析して、学会発表をしたのが去年の夏です。

 この発表をみて、連絡をしてくださったのが、京都新聞の松下亜樹子さんです。松下さんから記事を書いてみないかという依頼がありました。そのときに彼女からいわれた〆切が、今年の2月18日。金子の命日です。掲載されたのは2月22日、わたしの誕生日です。なにかの巡り合わせかと思っています。

 さて、今回、刊行される本についてです。本田正明さんから原稿のご依頼をいただいたとき、竹居先生は明治21年の古美術調査についてまとめたものを改めてのせられるとのことでした。それで、わたしはその明治21年よりも前、明治10年代の金子に注目することで、時の流れがつながるように工夫しました。明治10年代の金子は25〜35歳のころで、どこで何をしていたのか、どのような性格だったのか。もっとも不明なところが多い時期です。金子には短い伝記がいくつかありますが、内容は正確でしょうか。それで史料を調査して書いたものを載せています。とくに、金子が新聞記者になるまえ、明治10年には新潟の投書家として活動していたことを明らかにできたことは成果だと思います。

 金子の性格については、2つの史料をとりあげています。1つは失恋についての投書です。金子は好きな女性がいて、何度もラブレターを書き直したけれども、女性が亡くなってしまう。自分の想いを伝えることはできず、悲しいと書いている。金子は女性に冷たかったとされているのですが、そうではない一面をみせていることがわかります。2つめが、新聞をつくることの喜びを感じながら、世の中を表現するのだと新聞記者の心構えを書いている記事です。金子は内面に起伏のある、豊かな感情を秘めた人だったのではないかと考えています。

 ところで、話は飛びますが、金子は明治42年に亡くなる日、戒名を自分でつけました。「菩提樹院静枝居士」といいます。金子は宗教にまったく関心がなかったのに、お見舞いにきた人たちと仏教について会話をしています。さらに戒名を自分でつけるうえに「菩提樹」と仏教のイメージが強いことばを選んでいるのは人生の最後に、寄り添いたい、信じたい何かが芽生えていたのではないでしょうか。これからの課題です。 

 この本が出て、終わりではありません。広い問いをすれば、近代美術史と金子はどのように関連づけられるのだろうか。たとえば、古美術調査において岡倉覚三、フェノロサといったひとたちと金子の美術に対する「まなざし」の違いです。金子は岡倉らの活動をひとびとにつたえる立場であった。そのとき、何が起こっていたのか。わたしはそこに関心があります。また、新聞記者の職分について。現在の新聞では、政治、文化、音楽など分野ごとに担当の記者がいますが、金子は小説、批評、和歌と幅広く、洒落・蘊蓄を活かした文章をかいています。一人でいくつかの役をこなしているわけです。このような幅広い視野をもつ新聞記者は他にもいますが、近代の批評において、かれらをどのように評価するべきか、という問いも生まれます。わたしも引き続き、勉強していきたい。

 金子がつないでくれたこのご縁を大切に、みなさまからご指導いただけますよう、お願い申し上げます。

 今日はどうもありがとうございました。

 木下知威

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