塙の息子・塙忠宝は伊藤博文と山尾庸三によって暗殺されたという渋沢栄一の述懐があるそうです。よく知られるように、伊藤は生前から史料をよく残していました。これを活用した伝記、春畝公追頌會編『伊藤博文傳』を取り上げます。これは伝記のなかでも一次史料を多く使っている詳細なものです。ここから塙忠宝に関するくだりを読んでみましょう。

 

第四章 勤王攘夷(下)

曩(さき)に安藤信正を坂下門外に要撃せし激徒の斬奸状に、廃帝の故事を取調べたる一箇条ありしが、その取調の任に当りし者は、国学者塙次郎(忠宝)なることが判明した。ここに於いて、公(伊藤)は、先づ山尾庸三と共に国学入門と称し、塙を麹町三番町の住宅に訪ね、その面貌を見定め置き、文久二年十二月二十一日の夜、塙が他所よりの帰宅を待受け、その住宅附近に於いて国賊と呼びかけ、これを斬殺した。
(『伊藤博文傳』上巻、73頁、昭和15年、旧字をあらため、括弧は補足したもの)


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 参考:麹町(東京都千代田区)の位置

これを読むと塙保己一の息子を伊藤と山尾が暗殺したのは確かなことがわかります。つまり、日本において盲唖学校の必要性を説き、なおかつ訓盲院とも深く結ばれることになる山尾としては、「盲人の息子を殺したことがある」過去を有している人物になります。わたしはこのことを皮肉なことだと言いたいのではありません。
そうではなく、筑波大学附属の盲学校・聾学校において語られる山尾はあくまでもその一面にすぎないということであり、かつてそのようなこともあったということを知っておくべきだということです。

塙保己一はそんな山尾庸三になんと声をかけるでしょうか。

2013年 4月 17日(水) 19時38分20秒
癸巳の年 卯月 十七日 癸丑の日
戌の刻 二つ

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