幕末史において、和田義亮(わだ・よしすけ)という人物がいる。きわめて重要な人物というわけではないのだが、Wikipediaコトバンク(講談社 日本人名大辞典を修正したものらしい)には和田の項目があるので、外せない人物であることはいえるだろう。さて、この和田についてふたつの辞書には明治12年11月8日に死去したと書かれている。

これを覆す資料が2点あるので紹介したい。

1、日出新聞(明治22年11月13日)

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「●和田義亮翁没す」という記事があり、これによれば今年73歳であり、幕末の混乱のあとは織物の仕事をしていたという。そして、11月9日に亡くなったと書かれている。これは、明治12年11月8日に死去したとする2つの辞書の記述と相反している。
また、本年七十三ということを信じるならば、1816年(文化13年)生まれになるが、これも1808年(文化5年)生まれとする辞書と相違している。新聞記事が間違っているのであろうか。

そこで、もうひとつの史料を呈示したい。

2、北垣國道『塵海』

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これは京都府知事をしていた、北垣國道の日記。近代京都を知るにあたり、きわめて重要な史料のひとつである。これをひもといてみると、明治22年11月14日にはこんな一文があることに気付く。

「午後四時高台寺ニ養正社頼支峰・和田義亮祭典ニ至リ奠ス。」

日出新聞と北垣の日記を見比べると時期的に矛盾していないので、日出新聞の記事に信を置いてよいと思われる。
頼支峰は頼山陽の次男で、この人は明治22年に没している。この頼と和田は同じく高台寺にて祭典がされたということである。日出新聞によれば、10日に埋葬されたとあるので、埋葬後に式を営んだということも不自然ではない。よって、和田の没年は1889年の11月9日と考えられるのではないだろうか。和田の生年は1816年(文化13年)の可能性もあるのではないか。

話はややそれるが、北垣が書くように頼支峰・和田義亮が同じタイミングで祀られたようにみえるところにも着目したい。頼は7月に没しているようだ。そして、「養正社」がキーワードになるのだろう。ググってみると、以下の記述がヒットする。

「京都霊山において招魂祭が養正社による私祭として行われることとなった。養正社は同年、内閣顧問木戸孝允と京都府権知事槙村正直が中心となり作った組織だ。祭られる対象は「戊午(安政5年・1858)以来、其の身多年 王事に憂労して終に非命に死」んだ者たち」

なるほど、和田はまさに「王事に憂労」した人物であることが先ほどの新聞記事からも伺える。頼支峰もまた天皇の奠都についていった人物である。尊王という意味では和田と頼は共通しているので、養正社において祀られたのではないだろうか。
そして、養正社は現在もあるようだ。

2013年 4月 10日(水) 00時15分44秒
癸巳の年 卯月 十日 丙午の日
子の刻 三つ

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