tomotake kinoshita old journals

 

2012-01 journals

忘れていた文
2012-1-24(Mardi)
あるものを探すために、自分の名前でぐぐってみたら、こんなのが出た。
http://blogs.yahoo.co.jp/kn_lechien/23348362.html
これは、木下長宏先生のところで受けていた美術史の勉強会において、美術家のアナ・メンディエタが取り上げられたときに書いた文章です。メンディエタのカタログ、NYCのストランド書店でやっと見つけたんですよね。あのときの喜びようと言ったら・・・。

今のわたしが見たら、「アルボンギャルドって、なに書いてるんだあよ〜」って声をかけてしまいそうだけれど、同時にこういうのに関心を持っていたんだな、と今も変わらない視線に我ながら驚いた。


2012年 1月 24日(火) 19時27分46秒
壬辰の年(閏年) 睦月 二十四日 甲申の日
戌の刻 一つ

二人の女性
2012-1-23(Lundi)
今朝、うつらうつらとしているときにこんな夢をみた。
記憶が鮮明なので、そのまま枕元のノートにメモをしたもの。

 京都盲唖院の教員について調べる旅をしていたわたしは、福岡県の柳川のような、あるいは長野県の諏訪市のようなところにやってきた。町名がわからないのだが、イメージとしては、川や湖が間近にあるような町だ。柳がたくさんあったような気がするので、柳川なのかもしれない。そこには、京都盲唖院の教員が建てたという古い五重塔と堂があった。これは口伝だけで伝わっていて確実な情報があるわけではない。古い、ぼやけた写真をわたしは持っていたかあるいは人から見せられた。その五重塔は電送写真のようにノイズがひどく、スクラッチがたくさんあった。もちろんこれだけではわからないが、それを調べるためにこの町にやってきたのだった。あたりを見回すとメタボリズム建築でいう、菊竹清訓の海上都市のような白い小屋が川のほとりにあり、そこで遊んでいたという情報もあった。しかし、本当なのかはわからない。
 そして、わたしは湖畔にある古い医院の医師に出会った。彼は聾者で舞妓に恋しているという人物だった。舞妓は母娘で、船上で活動しているという。そして、船上に住んでいるせいなのか、普段の所在がわからないという。同じ聾者だからか、彼に惹かれて、わたしはその親子を探し出そうとした。まるで探偵である。他の船に飛び乗ったわたしは船が密集している湖畔に出て、医師の証言を手がかりになんとか娘を見つけ出す。娘が乗っている船はいまでいう屋形船のような、屋根のついた船だった。
「君だよね?」
 娘は何も答えなかったけれど、奥のほうから30代後半か40代と思われる女性が出てきた。竹久夢二の絵からそのまま飛び出したような女性で、ぷっくりした唇をしていて、わたしはハッとしたのだった。医師は母娘の舞妓だというが、会ってみると年の差をあまり感じない。むしろ、少し年の離れた姉妹といった感を強くした。
母娘ですかと聞こうと思ったが、なぜか憚られてしまった。
 母にあの医者が好意をもっているので会ってもらえないだろうかと頼んだら、母はクスッと笑って
「どこにいけばいいの?」
という。わたしはなんとか医院近くの港の名前を思い出して指示をしたのだが、今はその港の名前を思い出すことがどうしてもできない。「×××だ・・・」と伝えると女性はボートのエンジンをかけて三人はどんどん岸に向かって行った。
 少ししただろうか、岸が見えてきて、近づいてきたのだが、スピードを落とすそぶりがない。え、まだ?あっ、ぶつかる!あぶない!と思った瞬間に舟がジャンプして町を流れる川から川へと義経の八双飛びのように飛び、ちょうど医院の前へ飛び込んで静止したのだった。動悸がおさまらないまま降りてその医院を見上げると、近代建築を保存したような造りで、柱がたくさん並んでいた。そんな古めかしい建物の二階にあがり、診断室に入るとその医師がいた。再会するふたり。だが、母はこの医院にきたことがあるのだろうか、慣れた足取りをしているのがなんとも奇妙だった。それを見る娘とわたし。何も会話はなかったのだけれど、舞妓の母が携帯電話を取り出して、誰かと会話したあとに
「ここにいってごらん。」
とメモを渡された。
 その紙には、女性の名前と住所が書かれてあり、それはわたしが消息を探していた京都盲唖院の教員と付き合っていた元舞妓だという。彼女がなぜわたしの目的を知っているのか尋ねるのを忘れたまま、きびすを返してその住所に向かったのだった。(完)


二人の女性は結局、何者かはわからないまま。顔は見覚えがなかったので、わたしの観念が作り出したものなのだろうか。それとも竹久夢二の絵のように見たことのある顔をコラージュしたものであろうか。
こうして読むと、京都盲唖院に関する調査を行っているという現実と訪問したことのない湖畔の町という非現実が入り交じることでハイパーリアルになっている。


2012年 1月 23日(月) 22時25分50秒
壬辰の年(閏年) 睦月 二十三日 癸未の日
亥の刻 三つ

見えない女性たち
2012-1-17(Mardi)
藝大先端2012(Bankart)を訪問する。川村麻純さん( @masumikawamura )の作品をみることが最大の目的だった。川村さんには失礼なのだが、正直にいうと、彼女のお仕事については表面的なこと以外はよく知らなかったのだが、この方がへんな先入観もないだろうとポシティブに考えながら3階に。

黒いカーテンの廊下を潜りぬけると、合わせ鏡のように配置されたスクリーンに女性同士が無言で佇んでいる映像があった。それは登場人物が瞬きをしているし、かすかに皮膚をふるわせていて、たしかに静止していないからだ。しかし、川村さんと筆談で話をすると、これは「写真」であり、5D mark IIを使って動画撮影をしていると。初期のダゲレオタイプのように、時間をかけて被写体を「撮影しています」と彼女はいう。この写真は年上と年下の女性が向かい合っていて、川村さんがご用意してくださった朗読の読み上げテキストを読むかぎり、それは母と娘らしい。母と娘の喧嘩、父と母の喧嘩、結婚、出生、教育観が口語体で第三者によって読み上げられている。
まわりの人をみると、ヘッドフォンをしていて、スクリーンを見ている。被写体には失礼であることは承知しているが、死の声を聞こうかとしているようであった。死というのは人のことではなくて、時間のことで、彼女たちがすでに語り、消え去ったはずの言語が第三者によって復元される・・・。
女の一生として、生まれたところから死ぬまでのストーリーがひとつの時間軸のなかに仕立てられていた。「女の一生」と書いたのはモーパッサンを意識していることはいうまでもない。だが、違うのは、母と娘はときどき別の人に入れ替わっていることである。20〜30パターンはあったのではないか、どんどん女性たちが写真の奥から出ては、フェードアウトしていく。見つめ合うように配置されているスクリーンは、わたしたちの視線を左右に動かして、なにか二人の告白を聞かされる人としてそこに在るようかのようだと思われた。
ひとりの男として、母と娘の関係をみているような気持ちで、ここにいていいのかなとも感じる自分に思わず苦笑してしまったのだが、母と娘は無言だからこそ、回想としてテキストの文章がその母娘の融合体として発音されているものになっているように見えた。川村さんによれば、読み上げをしている方はまったくの第三者であり、それも映像を見ていないという。
だが、それはわたしの前では無効化されている。わたしは聾者なので、声の属性は常に無効化されるのであって、テキストの文章を読みながら、ときどき顔を上げて母と娘の顔をみる。どんな顔をしているのか、こういう思想をしていたのかということを顔のなかに刷り込んで、それはある意味、中世の記憶術(カラザース)のような、古めかしいことをしていると思う。要するに、わたしはマクルーハンのいう、中世的な人なのかもしれない。

女の一生は母への抵抗や、母への凄さの再認識であったり、「女の子は最終的に母に近づく・・・」と、娘と母の距離が縮まったかと思えば、最後は母の死について語られるようになる。
こんな下りがあったのを覚えている。
「ホスピスに入り・・・」
「ベッドから体を起こし、もたれかかりたいと娘にいう。そのあと、意識がなかったけれど目から涙が出ていた。」

ああ、と思わず、写真を見上げた。二人の女性が同化して、昇華しているかのようなそんな終わりがあった。
しかし写真にいる女性は何もいわず、ただ、瞬きをしてそこにいるだけだった。なんていうんだろう・・・・。まるでわたしの感覚のようだった。わたし、筆談をするから、筆談をする人が思念をこめて言語を紡ぎ出しているときと、書き終わったときのときは時間がすでに過ぎ去っているわけで、なにかが言語化されたときにはすでに、その時間が過ぎ去っていて、筆談された文字だけが残っている。相手の顔をみると、もう言語をつむいでいない(手話との違いで、もっと語りたいところ)。書き終わったという顔をしている。感情が過ぎ去ったかのようなことをわたしは常に見ているのだが、そのようなものが先鋭化されたのが、川村さんの作品であったように感じられた。

二人の女性はどちらも声を出すことはなく、ただ、見つめているだけだった。ひとつずつのぞくと、ルネサンス絵画でいうと、ヴィトーレ・カルパッチョが描いた若い女性。あのような、顔を向けている女性たちの肖像画たちの系譜上にあるように思われた。というのも、周りのオブジェの位置づけという意味においてだろう。写真をみると、化粧、衣服、年齢、場、物といった存在からわたしはその人物像を読み取ろうと無意識に行ってしまうのだが、それはもちろんわたしのやり方ではなくて、ケネス・クラークがレオナルドのジネヴラ・デ・ベンチについて、針葉樹のように尖った植物と女性のなめらかな肌、カールした髪の対比について言及し、より彼女の存在をわたしたちに突きつけていると述べていたのではなかったか。被写体の彼女たちの背後にある写真立て、絵画、著作、写真、風景といったものが、彼女そのものと一体化するかのように見てしまう。とすると、映像/写真の境目は何なのだろうと考えてしまう。
そして、なぜ、ルネサンス絵画なのかというと、かつて小瀬村真美さんの「氏の肖像」という映像インスタレーションを見たことが脳裏にあるからかもしれない。小瀬村さんは、ピサネッロによるジネヴラ・デステの肖像を映像として瞬きさせることで、悲運といってよいのか、決して幸福ではなかったかもしれない運命の女性が訴えかけてくるものにみせていた。それをまた逆転/反転させたかのような、すでに鬼籍に入ったジネヴラ・デステと今、このときを生きている女性たちが川村さんと小瀬村さんの感性によって、すれ違っているのではないか。
わたしは川村麻純さんと小瀬村真美さんのお二人が考える、写真/映像が炙りだす生死の表象に関心がある。

わたしは聞こえないから、川村さんの「被写体の記憶をインタビューという手法を通して、声を撮りたいと考えたわけです。」という文章にある、「声を撮りたい」というのは、とても新鮮な言葉だった。
声を撮る・・・すごいよね。それは、きっと聾者にとって新しい感覚になるはずだけど、どうやってみせてくれるのだろう。川村さんのこれからを楽しみにしながら、わたしは暗くなりかけるBankartを離れたのだった。


2012年 1月 17日(火) 23時51分43秒
壬辰の年(閏年) 睦月 十七日 丁丑の日
子の刻 二つ

謹賀新年
2012-1-1(Dimanche)
今年もどうぞよろしくお願い致します。
最近は主にtwitterをやっているのですが、旧年のようにならないようにここも更新していくことにします。
どうぞよろしくお願いします。



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