tomotake kinoshita old journals

 

2010-05 journals


2010-5-28(Vendredi)


国立近代美術館でみた、菊地宏さんのインスタレーション。
太陽がぐるぐるまわるたびに風景が高速度に変わっていき、時間があっというまに経過する錯覚。
現実には時間は少しずつ経過しているのだが、ぼくは果たして元気なのだろうか?

2010年 5月 28日(金) 23時58分22秒
庚寅の年 皐月 二十八日 戊寅の日
子の刻 二つ

引き延ばされる時間
2010-5-22(Samedi)
あのことを思うと、気持ちが沈む。
しっかりご飯を食べて、元気にならないと。

2010年 5月 22日(土) 23時14分02秒
庚寅の年 皐月 二十二日 壬申の日
子の刻 一つ

見えなくなる身体
2010-5-20(Jeudi)

『博物館獣譜』東京国立博物館蔵


虎のイラストだけれど、これを書いた人や虎はもうこの世にはいないだろう。年代からして、絵師は実物の虎をみなかったのかもしれない。それはともかく、紙にその虎が残っている。左側には、墨で書かれた下絵の虎があって、かわいい感じでねそべっている。
色彩がつけられた虎とそうでない虎が混合していることがおもしろい。虎の一部分である足や尻尾しかみえなかったり。左のイラストは虎の身体らしくない。虎が浮上したり沈んだりしているようなイラストで、イメージの断片のようにみえる。

この浮沈だけれど、道を歩いているとき、前を歩いている男が脇道に入って姿が見えなくなった。
あれ、あんなところに道があっただろうか?と思い、脇道のところで視線を男のほうに向けると、彼は脇道の奥でドアをあけて入ろうとしているところで、身体の半分が見えなくなっていた。名前も知らず、顔もよくみていない。わたしにとって、彼の身体はあまりにもあいまいである。この男とはもう二度と会わないかもしれない。先日、用事があって羽田空港に行ったのだが、人通りの激しさと言ったら・・・。到着した人は電車やバスに乗るために消えてゆくし、来た人もまた搭乗手続きを済ませて、消えて行ってしまう。時間はそこにあるのに、人の身体だけがまぼろしのようだ。空港はそこにあるのに、身体だけがすっと消えてゆく。ある点でカメラをおいてシャッターを開けっ放しにしたら、人のシルエットがみえない写真ができるかもしれない。素通りした身体だけがかすかに写真に残っている。

・・・・

このような匿名の身体が消えていくシーンをいつも目にするのだけれど、誰であれ、個人的に知っている人がふっと消えて行くときはとても不思議な感情を生じさせる。また会えるのかなという感情が。
その人の話し方や筆跡、身振り、歩き方などなど・・・その人が醸し出している身体動作がわたしの記憶や歴史の蓄積がある。それに、その人と話した内容、思い出、家族構成、仕事といったものがわたしのなかに沈殿されている。その徴である身体がふっと消えていく瞬間を思い出すと、せつなくなってくる。それが強くつながっているほど、正直、耐えられないこともある。
なぜかというと、その人とわたしの間にある歴史や記憶の共有がふっつりと切れていくのを感じるからなのだろうか。
いま、祖母が亡くなったときの葬式で火葬場における最後の別れとか、『グラン・ブルー』という映画を思い出したけれど、最後にジャックはイルカに会いに海に潜ろうとする。それを止めようとした恋人は最後にあきらめたような、しかし決意した表情で、行きなさいと機器のスイッチを入れるのだけど、そのような感じの苦痛、耐えられなさがある。

2010年 5月 20日(木) 11時15分57秒
庚寅の年 皐月 二十日 庚午の日
午の刻 一つ

くだけちった
2010-5-19(Mercredi)
ずっと大切にしていたものが壊れてしまった。
とても長い時間をかけただけに堪えるしかない。
時間は待ってくれず、いろんなことをこなしていかないといけない。
その合間に「ごめんなさい、ぼくがわるかった。」と独白する。

2010年 5月 19日(水) 20時52分00秒
庚寅の年 皐月 十九日 己巳の日
戌の刻 四つ

消える男
2010-5-17(Lundi)


http://www.ladydior.com/
David Lynchが担当したという映像をみる。ひさびさにリンチをみたが、とあるホテルの一室で突如として現れたカバン(これがディオールの宣伝なのだが)に驚く女性がホテルの人を呼ぶというストーリー。そして男性との逃避行を回想するシーンから荒っぽいフィルムになる。しまいにはだんだん男の姿が見えなくなって、男女が徐々に離れてゆく様がいい。



ムンクを思わせる映像が挿しこまれる。


2010年 5月 17日(月) 18時05分04秒
庚寅の年 皐月 十七日 丁卯の日
酉の刻 三つ

まちがいなく/みじかい
2010-5-16(Dimanche)
金子彰子(かねこしょうこ)詩集『二月十四日』かららしい、こんな詩があった。
http://d.hatena.ne.jp/Kaneco/20100425

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あいされるきせつは

まちがいなく

みじかい

それは

きみのおもうよりも

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きゅっと胸がしめつけられる。
この痛みを忘れることはないだろう。
ありがとう・・・。


2010年 5月 16日(日) 16時38分33秒
庚寅の年 皐月 十六日 丙寅の日
申の刻 四つ

球を追いかけて
2010-5-15(Samedi)
ピンボールのために出かけることはしないのだが、何かの用事のついでに、ピンボールが置いてあるところの近くを通ることがあったらば、時計と財布と相談のうえ、途中下車してゲームに没頭する。そんな生活がある。
もうだいぶ前のことではあるが、東急の旗の台駅東口のすぐ近くにゲームコーナーがあって、ピンボールを打てるとネットで知っていたので途中下車する。



こんな感じで古っぽい香りのするゲーセンの隅におめあての台はあった。右は"Gladiators"(Gottlieb 1993)、左は"Straight Flush"(Williams 1970)。どちらの台もおもしろいんだけど(これは初心者だから、とにかくなんでもやりたいんだ・・・)



黄色を基調にしたデザインがかわいい。トランプを配置していて、バンパー(台のなかにある5つの丸っぽいもの)のデザインも時代を感じる。それとバックボックス("Straight Flush"とあるもの)のアニメチックな感じも楽しみながらしばらくプレイ。この時代って今のピンボール台よりも角度が水平に近いのでボールの回し方もだいぶ違う。フリッパーの感じもよい。



"Gladiators"というと「剣闘士」、ラッセル・クロウによる、ローマ時代を舞台にした映画を彷彿させるのだが、そんな香りは少しもしない。バックボックスが白くてよくみえないが、こんな感じのデザインで
http://www.ipdb.org/showpic.pl?id=1011&picno=992
むしろSFと言ったイメージになっている。未来の闘技場といったイメージなのだろうか。

球を追いかけて、フリッパーで狙いを定めて打つ。打った瞬間にどうなるかわからない、ギャンブルのようなものもありつつ、しかしこのように打てばいけるにちがいないという確信を込めて打つ。
ぼくの人生においても、ひとたび放たれた言葉を引っ込めることはできない。言葉の球を口なり筆談なり、手話なり、相手にむけて打つ。その先、球がどのように相手にぶつかってはねかえるのか、そこまではわからない。ピンボールを打つ事は、なにか、自分の人生で積み重ねてきた会話を反復するようでもある。

2010年 5月 15日(土) 21時54分20秒
庚寅の年 皐月 十五日 乙丑の日
亥の刻 二つ

溶けるポストモダン
2010-5-9(Dimanche)


国立近代美術館「建築はどこにあるの?」展へ。
チケットを手に入場した瞬間、この展覧会はポストモダンを溶かしていると思った。マニエリスムという意味ではなく、様式、装飾といったものに強酸の液体 ― 硝酸のようなものをぶちまけてどろどろに溶かしてしまっているような感触を受ける。
伊東豊雄さんのは、オスロのダイヒマン図書館設計コンペのなかで、これまでの作品の手法を振り返るような展示だった。多摩美の図書館だったり、ゆがむようなやり方からより踏み込んでいるような、冒頭の中村竜治さんのほとんど骨のような、豆腐のような物体があったからかもしれない。
それと相まって目を動かしたり、体を動かしたりするだけで見え方が変わってくるのは、21世紀建築の特性 ― ホログラフィーなものなのかもしれない。




それから、内藤さんの展示は赤いレーザーを上から照射するというもの。
まるでこれは、身体検査のようだ。身体の動きに対してモアレ線をつくりだすそれは、モアレと身体が合体するとき背骨のゆがみを検出することを思わせる。ダンサーがパフォーマンスするらしいが、それよりもこれは身体障害者とそうでないひとを区分する装置であるように思われた。結局、建築は身体障害者を身体障害者のままに設計をしている。この生命倫理に、深く失望するしかないのだろうか。

外に出たら、アトリエ・ワンによるサファリが待ち受けている。これらの動物に食われるのだろう。


2010年 5月 09日(日) 23時53分44秒
庚寅の年 皐月 九日 己未の日
子の刻 二つ

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