許容の不安 — 京都大学バリアフリーシンポジウム2017

金閣にて

9月9日、10日に開催された「京都大学バリアフリーシンポジウム2017-創って、操って、奏でる「理のバリアフリー」」に参加した。このシンポジウムは2日間、3部にわたって開催された。

わたしは全日程に参加し、すべての発表を拝見した。一番の収穫としてはそれぞれの分野でご活躍されている先生方の言葉や共有認識のありように接することができたことである。シンポジウム全体の要約ではないが、発表やディスカッションにおいて印象に残ったことを記しておきたい。

会場に登壇された皆さんについて、敬称を略した形で記したい。

まず、このシンポジウムで引き合いにされた話題として「合理的配慮」があった。これはもちろん、”Reasonable accommodation”の訳語としてあるが、京都大の川添理事より、この”Reasonable accommodation”の辞書的な検討から「合理的配慮」に訳してよいのかどうかという疑問の呈示があった。このことについて追求することがこのシンポジウムの目的ではないが、今後この言葉がどのように在るべきなのかを予言するようなお話であったように思える。おそらくそんなに遠くないときにこの「合理的配慮」なるものについて語ることが行われるだろう。わたしの発表でも伝えたが、この「合理的配慮」を発したときに相手がどのように感じるかは読めないところがあるからだ。
また、「学問とはあくまでもどんな場合でも一般的に適用する原則をみつける」というところが印象に残っている。

そののち、第一部:「理を創る」がスタート。発表者は4名。

コーディネーター:嶺重 慎(京都大学 大学院理学研究科 教授)
講演者:杉野 昭博(首都大学東京 都市教養学部 教授)
松井 彰彦(東京大学 大学院経済学研究科 教授)
広瀬 浩二郎(国立民族学博物館 准教授)

まず、嶺重の話では八木陽平がテキサス大学に入学し、修士号取得をめざしたが果たせず、嶺重は今でも心残りであるという話をされたときの表情を忘れることができない。その後、天文学におけるブラックホール研究だけでなく、手話版DVDを明晴学園と開発しているそうだが、手話は立体的だから天文学の専門用語の表現可能性があるというところがおもしろい。また、八王子盲で盲の生徒に天文学を教えるということもチャレンジされているということだった。この展開可能性はわたしも忘れないでおきたい。
また、”More is diffferent”という「たくさん集まると質的に異なる予想外のふるまいが現れる」という非平衡開放系は、わたしがプレゼンした「群立的思考」と共鳴するものがあるのではないか。なぜなら、群立的思考はわたしの相手にとっては突然メールがきたり、話しかけられたりするという予測しがたいことを積極的に行うアクションでもあって、それはエントロピーでいう乱雑さの度合いが高い状態を指し示すからではないかと思われるからだ。

杉野。
まず、出席者との人間関係について。たとえば、広瀬が京大を受験したとき点字で回答された答案を墨字にしたのが当時、大阪府立盲学校(だったかな)教諭・杉野だったという。これはしらなかった。また、AA研の足立明ともお付き合いがあったという。
さて、本題について日本・アメリカ・イギリスにおける障害学の視点を概説されたが、それは障害の社会モデルにおいて、

日本:反優生思想による社会批判
アメリカ:人種差別、性差別との連携し、公民権を主張する
イギリス:チャリティからの自立

という特徴があるという。とくにアメリカにおいては各分野では障害学が注目されたのはADA法との関連や教養教育改革との関係が指摘されていると補説された。また、英米ではディサビリティー・アートがさかんになっているが、日本ではすごく少ないといわれた(松井も障害者アートについて注目されている旨、発言されていた)。たとえば櫛野展正の「クシノテラス」で彼本人が「日本唯一のアウトサイダー・キュレーター」と名乗っているが、アウトサイダー・アートとディサビリティー・アートはどこが違うのだろうか。このあたりの整理はどうなっているのかと思う。課題として、それぞれの学問で障害学の食べやすいところだけ消費してしまうことを取り上げていた。

松井。経済学について「お金儲けの学問でしょ?」「弱肉強食でしょ?」などと経済学にたいする一般的なイメージについていわれることについて応答したいということで、経済学とは何か、障害と経済学の視点から明らかにされようとする内容だった。
「経済」は「経国済民」国をおさめ、民を救うというのが本来の経済学であって、それは共同体や社会のあり方を考えることでそれ自身の行動原理を明らかにすることであるというきわめて明快な定義を示された。

講演で興味深かったのは新美南吉『てぶくろをかいに』を経済学の視点から検討されたことである。こまかいストーリーは省くが要するにきつねの片手を人間の手に化けさせ、それをつかって手袋を買う物語であったが思わずきつねの手を出してしまうというくだりがあった。このとき、なぜ人間はきつねをつかまえないのかというところで、それは対価があるからだと指摘された。つまり、お金をもっているからであって、手袋を求められた店主は市場のルールを守っているのだという。

また、母きつねがものを盗もうとして、鉄砲で撃たれたことがあるというのは対価がないから「あたりまえのことだ」という。相手のためになることをお互いにする、欲しがっている人にはものをわたすという市場の本質があるといわれた。

また、現在の経済学は個人的な意思決定をベースにしてさまざまな人間関係を研究する学問にシフトチェンジしているという。

もっとも興味深かったのは「自立した個人は強者か?」という問いの応答である。ペースメーカーを埋め込まれ、障害者になった自身について、お世話になっている医者がかりに亡くなっても大丈夫だと指摘されたことが興味深い。曰く、それは「集団」で診てくれているからだという。医者はたくさんいる、たとえばコンビニが1つつぶれても他のコンビニがあるという選択肢がある。これは群立的思考においても重要な指摘であるように思えた。発表後、熊谷晋一郎から「トラウマを削ぐ方法として何を考えているか」という問いを受け、方法自体よりも「まず、複数の方法をもつことが重要である」と回答したが、この背景には松井のお話が共鳴しているだろう。しかし・・・まだもやっとしていて概念的であるが、身体障害の内容によっては、選択肢の可能性が限られているはずでこれをどう確保するのかという問いもありうるのではないか。

広瀬。
まったく知らなかったのだけど、18歳のときに点字で詩を書いていたというが(読んでみたい)、40を過ぎてまた書きはじめたからそれを読んでほしいと、それが自己紹介代わりだというところがウィットに富んでいておもしろい。この観衆の心をつかむようなトーク力は、彼がいろんな講演会に呼ばれるひとつの要因だろう。
今年から国民文化祭と障害者芸術文化祭が奈良で同時開催されるといい、そのプロモーション映像として白鳳時代の仏頭(興福寺蔵であろう)のレプリカをさわっている映像をみせていた。

盲人の現実として、駅のホームにおける転落事故について、ホームを「欄干のない橋」と表現されていたのは建築を学び、教えるものとしてひじょうに空間的なイメージが伝わった瞬間であった。

広瀬は毎日の通勤で「大丈夫ですか」という声がけ運動にイラッとするという。このような「マイノリティがイラッとする事例を集める」ことが大事で「障害者と十把一絡げにする近代的枠組になってきた、そもそものニーズは異なる」と指摘されたことは重要だと思える。障害者という対応ではなく、人と人の関係を制度として捉えなおす視点をつくれないものか。

最後に広瀬は平家物語の那須与一のパートをきかせながら、琵琶が鳴らされる瞬間だけ足踏みをして振動を起こすことによって聾者たちに琵琶の語りがいかにのろいテンポであるかを示されようとされた。これはほんとうに音楽的な行為であって、会場が一体化される感覚があった。広瀬はこの引き込み方が本当にうまいと思う。

さて、質疑では、「身の回りの些細な経験から障害者に対する考え方が決まってくる」という話があった(どなたの発言かは失念した)。これは、わたしとしては自由を奪われるような感覚がある。これから出会うであろう人たちに接するときに、できるだけ不快感を抱かせたくないというバイアスがかかってしまうように思えてしまう。なぜなら、障害者としてのわたしと接することで、その人が障害者にたいする偏見をもつようになってしまえば、その人が出会うであろう障害者たちが苦しむかもしれないからだ。言い方はわるいのだが、わたしは八方美人的な対応にならざるをえないのであろうか。ここは悩むところである。

良い質問もあった。ある院生が杉野にされた質問で「障害者運動はろう文化宣言などいろいろとあって、健常者の規範を覆そうとするラディカルな運動があったが、しかし必ずしもそういう部分ではなかった。ある面でいうと健常者に同化、統合化する運動が主だったのではないか」というのがおもしろい。もし、障害者運動を社会にたいするアンチテーゼとして仮定するならば、健常者に同化・統合化という視点はひじょうにフラットな社会のイメージを想像させる。

翌日では第二部:「理を操る」が行われた。いわゆる障害をもつ若手研究者が研究を行うなかでどのような課題があるかを議論するものであった。

発表者:木下 知威、後藤 睦、安井 絢子、ライラ・カセム
コメンテーター:熊谷 晋一郎(東京大学 先端科学技術研究センター 准教授)

わたしの発表では、研究を進めたり、ふだんの生活を送るにあたって不可欠な方法が「群立的思考」であるということを述べた。群立とは要するに「複数の要素が群れている」ことである。何かの縁があって、わたしと関わり合う人や史料、論文といった「要素」を目前で関連づけながらひとつの成果(あるいは目的)を果たそうとする考え方であった。これを可能にするにはまず群立による化学反応をおこしていくためにも、「種類」や「数」が大事であって、障害者であるがゆえに限られた空間・感覚のもと、それらを確保することの難しさが伴う。たとえば、耳学問ができないことによって新たな知識を取り込む=群立することが難しい。そこで、面識のない研究者に突然メールを送ったり、調査施設で出会った方に声をおかけすることを通じて、群立するための要素を増やしていく可能性を求めている。ただし、これは相手にとってはまったく予想しがたい出来事であるはずで、モラルに接触することも十分にありうることを認識しなければならない。

他の発表者について、ここではとくに後藤についてエールを送りたいと思う。後藤は格助詞についての研究をすることで聴覚障害者の苦手意識を無くせるのではないかという視点があった。
また、障害者があっても研究ができるという啓蒙活動の視点も示されていた。だけど、それは後藤の到着点ではないはずだ。啓蒙活動は重要だとおもうが、それはわたしにも適用される点であるという意味では通過点にすぎず、やや独自性が弱いように思えた。そうではなく、もっと先に彼女しか到着しえないゴールがあるように思える。たとえば、調査分析においてフィールドワークは行わないとされているところは、聴覚障害があるがゆえの判断とおもうが、ずいぶん思い切っていると感じた。ここでフィールドワークを排除した研究の可能性をどこまで示してくれるのかということだ。

第三部:「理を奏でる」

パネリストは以下の3名。

磯部 洋明(京都大学 大学院総合生存学館 准教授)
岩隈 美穂(京都大学 大学院医学研究科 准教授)
塩瀬 隆之(京都大学 総合博物館 准教授)

まず、岩隈がコーディネートする形で進められ、4つの関心事があると言われた。

1、テクノロジーと身体
2、当事者視点と他者視点
3、環境と相対的な力
4、障害者の高齢化

であった。

1、テクノロジーと身体
岩隈はエンハンスメント、普通の状態以上に増強されていくことについてパラリンピックの走り幅跳びのレーム選手の話題。義足のジャンパーでものすごい記録を出しているそうだが、これについてYahooコメントを分析すると、レームの成績に比例して批判的な意見がでてきて、社会の見方が変わってくるという。これをテクノロジー・アセプタンス、技術の受容態度であると指摘された。これについて、磯部は宇宙ステーション内部の写真で、掃除機を足にはさんで掃除をしているようすを示しつつ、「今、当然の身体技法は地球に適応したなかで限定されている」とされた。ほか、火星にいくプロジェクトにおいて、地球ではないのだから人体を変えることが大いにありえて、それは障害学と関係するのではないかという。

2、当事者視点と他者視点
岩隈は障害学について話すことの難しさとして「当事者であるということが強烈」であることを挙げられた。しかも当事者で、教員でしかも障害学について研究されているので学生にとっては薬が効きすぎて思考停止に陥ってしまうといわれた。それは学生が何も口を挟むことができない空気があったという。これについて塩瀬は工学=作り手は他者になりがち、よかれとやっているという。それは「役に立ちますよね?」「うれしいですよね?」となってしまう話で応じられた。つまり、当事者と他者視点はどちらも知らないと言うことが大切であるという。

岩隈はコピー機を使っている様子をどうやってつかうのか聞かれるまで答えられないとした。あまりにも自然すぎて言語が出てこないような状態であるというが、これは興味深い。言語化することによって、客観化=他者視点が担保されるのではないか。ここでわたしが思い出すのはヴァージニア・ウルフの小説のような、意識のゆらぎをテーマにするものである。

磯部の応答は能楽の世阿弥をもとに「離見の見」として、舞台に立っている自分を見ることが大事だという視点があった。スライドにはレヴィ=ストロース『はるかなる視線』の書影があったが、レヴィ=ストロースも世阿弥に応じて『はるかなる視線』(原著名:Le regard éloigné)としている。éloignéという感覚はどこかサードパーソン的な視点がある。
磯部は続ける。他者の視点から対象をみることで単純かされた本質的なものをみることができる、という。具体例として象さんを示すために「半径3メートルの球体」と表現し、月面から乾杯するシーンのあるカールスバーグのCMにおける宇宙飛行士の視点を示された。

障害という立場から当事者は地球社会の当事者であるとしつつも、その社会を大多数と違った視点で他者性をもっている、熊谷晋一郎が紹介したソーシャルマジョリティを改めて指摘された。中にいながら他者の立場で見られる、他者と当事者が入れ子になっているわけである、という。

3、環境と相対的な力
岩隈は木島英登のバリアフリー研究所ウェブサイトを示されながら、世界の障害者割合の統計をみると、国による定義のちがいで割合が異なっている。それはその国の経済的問題があって、貧しいほど障害者の割合が少なく見積もられる傾向があるという。岩隈は、授業の形式によって障害が「出る」ときがあると。たとえば、座っていると目立たないが、壇上に立つと白日のもとにさらされるという。

塩瀬はDisable personからDisabled Personというふうに語句がかわっていき、できなくさせられているだけだという応答をしてみせる。ものが変われば、使えるようになる、と。総社市では障害者1000人を雇用するというマニフェストがあったらしくこの7月に達成したらしいが、ここで出勤したくないときにはタクシーでの出勤を認めるという出勤の選択肢を確保していることを指摘した。

これについて磯部が「行きたくない」というのは普遍的な問題であって、そこが解決されると人々の幸福度があがるのではないかと答えられたうえで、冥王星の話題。冥王星は惑星と習っているが、現在は准惑星である。というのも、冥王星と同じくらいの星があってどこから先を惑星とすべきかという定義について議論した結果であるという。
さらに障害者と健常者のあいだにある中間的な学生がいて、「障害がある」といえば説得しやすいが・・・と課題を指摘されていた。

ここで岩隈にマイクがわたり、説明責任が障害者にあって、そこから始めないといけない辛さ、負担感があると言われ、塩瀬は経産省で働いていたときに「ものづくり」の線引きについて3Dプリンターはものづくりかどうか、難しいところだという指摘があった。それで曖昧にしておけないものは線をひいたり、引きなおしをする、社会のなかで考えるといわれた。これを受けた岩隈の要約が卓越していて「線引きの余白」とされた。

木下が思うに、これらの議論は「基準」の問題なのであろう。盲唖院は入学できる生徒において視覚障害、聴覚障害の基準があった。それは現代からみれば、数値化されていない曖昧な基準である。このあたりと冥王星が惑星かどうかという議論は共通点がある。この「環境と相対的な力」は興味深いところだった。

4、障害者の高齢化
障害者も当然、年をとっていく。岩隈はまず検索から障害者と高齢化について調べてみるが、なかなか先行研究がないという。Aging into DisabilityとAging with Disabilityがあり、前者は普通の人が年を取って高齢者になって障害をもとようになること、後者が障害者の高齢化。行き着くところは同じであるが、これについての意見のパターンは3つに要約されるという。

パターン1:普通の人が加齢によってできなくなることが障害をもっていると余計早いような気がするというコメント。

パターン2:年とって半身マヒの年寄りはいくらでもいるから、障害者も健常者も同じというコメント。

パターン3:障害をもっているから、バリアの対処法をもう身につけているからソフトラーニング、つまり学んでいく時間をとれるというコメント。

岩隈がパターン3に驚いたとしつつも、Aging in place、住み慣れたところで年を重ねる。どんな状態でもそこで最後まで生き続け、人生を終える。障害をもちながら地域でいろんなリソースを使うことを言われた。

最後に。

シンポジウム全体に参加してかんじたのは「許容の不安」だった。障害者の視点からマジョリティの特徴を論述できることができるといった今後の展開性がいくつかポシティブな文脈で語られていたが、そこにいきつくまでの当事者たちをめぐる研究環境の厳しさを考えると楽観できない。もちろん、それは研究全体をめぐる状況そのものでもあることは承知のうえである。研究という作業は基本的には孤独なもので、そこで起きるあらゆる事態に取り組まなければならないのは障害者であっても適用される。そんなときにアセプタンス、つまりどこまでわたしが直面する事態について、サポートを社会や大学がどこまで許容してくれるのかという「許容の不安」があった。

 

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