フィジカル・リアリティ — 山内祥太「恐怖の回り道」

強い雨の日、湯島聖堂の大成殿をみたのち、トーキョーワンダーサイト本郷にてTWS-Emerging 2017を見る。これは3回の会期に分かれていて、3人のアーティストたちがそれぞれのブースを与えられて展示をする、というプログラムになっている。そのうち、第2期の山内祥太「恐怖の回り道」を拝見したことについて書きたい。

この映像については、黒瀬陽平が東京新聞(2017年8月4日)で批評されているので、ここでは別の視点から考えてみたいと思う。

そのまえに山内の映像「恐怖の回り道」について説明をしておく必要があるだろう。まず空間から。視聴者と映像のあいだに距離が存在する現在、映像について語ることは空間について語ることに等しいからだ。まず、ワンルーム、ダブル・スクリーンで構成されていて、壁に一方のスクリーン、もう一方を手前に斜めに配置していた。革張りの椅子二脚がスクリーンごとにあり、そこからは手前と奥のスクリーンが同時に見られるようになっていた。

映像「恐怖の回り道」の内容は、山内がドライブをして、友人と相乗りしつつコンビニに行き、友人が買い物をしているうちに山内がうたた寝をしてしまい、夢の世界に行く(仮に夢世界と呼ぼう)。夢世界では一切が写真を3D化した仮想空間で構成されている。現実世界では山内の身体が消え、一方のスクリーンが電車の内部に切り替わり、そこに山内がうたた寝をしている姿が現れる・・・。そこに友人が持っていた球状のオブジェが転がり、拾い上げた女性と山内は現実世界にあった車に乗ってドライブする。
ちなみに、夢世界の最初で電車内の人たちの顔は写真が元になっているけれども(下の写真)、立体的な風景として流れると無言の、意思を持たない人たちのように思える。ルネ・マグリットや石田徹也の絵画にある抜け殻のような身体が存在するように思えて、ひどく悲しくなった。これが世の中なのだろうか。中央線を模した電車が静止し、3Dの車が走り出すときのガタンとするような大きな動きは、鳥山明のアニメ(アラレちゃん)や細馬宏通さんのディズニー映画論『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』を彷彿させる。

書いてみるとうまく説明できないことに気づく。わたし自身が3Dソフトを巡る技術的側面に弱いこともあるが、それ以上に「恐怖の回り道」はどこで区切るべきなのかわからない。映像であれば、最後にエンドロール、スタッフロールがあると考えてしまうが、「恐怖の回り道」にそれは存在しない。タイトルロゴも登場しない。こうして考えるとこれこそが本当の意味でのループする映像、なのであろうか。どこからがスタートなのか?車に乗るところなのか?それは鑑賞者が部屋に入ったタイミングに委ねられているのかもしれない。

話を戻すが、ここからが遅すぎる本題である。「恐怖の回り道」では山内がヴィデオ・カメラを構え、しばし静止したのち街路を歩き始めるシーンがある。東京の住宅街のようなイメージ。

写真にあるように、自然と建築、アパートや戸建てが程よい密度で並んでいるような風景であろう。右側にある、奥のスクリーンでは車の中からフロントガラスを映したシーンが投影される(山内はここに到着し、車に乗り込むのである)。街路を歩くシーンは基本的に一人称視点で街路の中心軸を歩いている。前から車がやってきたら脇によける。車が通り過ぎると中心に戻る。ところが不意に山内の身体が脇に動く瞬間があった。なんだろうと思うと、車が背後から通り過ぎ、続いてスクーターも通り過ぎて行ったのである。
わたしにはこのような動きは決してありえない。耳が全く聞こえないのだから、背後の車に注意することはできず、最初からあのように街路の中心軸を歩くことはしない。だから最初から脇道を歩き、時々後ろに注意をする。要するに視覚を聴覚のように使っているのである。だから、中心軸を歩き、脇にそれるという動きは聴者にとっては何気ないものであろうが、わたしにとっては自分の身体の特質を改めて突きつけられるシーンであった。これこそが、聴者の身体なのだ。ヴァーチャル・リアリティならぬ、フィジカル・リアリティだと思える瞬間が訪れたのだ。

街路を歩く山内のヴィデオ・カメラは水平を保とうとしている。写真において水平というのは多くの写真家が撮影をするときに注意する設定であるが、映像においてはどうであろうか。映像における水平の問題というのも感じた。というのは、街路を撮り始めるシーンの冒頭ではカーブミラーにヴィデオ・カメラを胸の位置に構える山内がいて、しばし水平であろうと両手でヴィデオ・カメラを支えて静止している様子が見えるからである。

ガッとトラックが通り過ぎるのにわたしはびっくりしてしまう。だって、音もなしに突然現れるんだもの。通りすぎた後、どこにでもあるような風景が広がっているが、カーブミラーを通じて姿を現している本人がいるのだ。その鏡面からゆっくりと身体がフェードアウトし、いつの間にか風景が一人称視点の街路になっている。このショットが一番すばらしい。ひとつづきのショットでありながら、この一連の動きによってカーブミラーと静止する間(ま)によって視点が鮮やかに切り替わっている。黒瀬が的確に批評されているように、山内は3Dアプリやクロマキー効果といった新旧の映像の合成技術を使うことに注目されている作家であるという。だけれども、そういう映像合成技術云々ではなくて、映像そのものに対する明快なイメージも持っていないと撮れない構図で思わず唸った。この点も深めていってほしいと願う。

最後に、わたしが「恐怖の回り道」を見ていたとき、どうも既視感を感じていたのだった。それが何なのかしばらく分からなかったのだが、ここで書いていて思い出した。一番最初に見たのはおそらく、「カオス*ラウンジ新芸術祭「怒りの日」いわき駅〜もりたか屋 」という、駅から会場までの道案内を作品(?)にしたものである。少し前のカオスラの展覧会に合わせて作られたものだと記憶している。「恐怖の回り道」を見たあと、部屋を出ると山内さんがいて思わず話しかけたのだが、その中で彼が手と足を大きく動かす歩き方を見せてくれて思い出したのだった。わたしにとっては身振りが記憶を引き出すボックスになっているようだ。

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