奥村雄樹「帰ってきたゴードン・マッタ=クラーク」展にて(2017年7月1日、statementsにて)

梅雨が明けました。みなさんお変わりありませんか。

さて、手話で「聾」と表現するときにどんな表現をするかという投票を行ったところ、以下の結果が出ました。

総票数103票。割合が多いものから結果を並べると以下のようになります。

「片手で片耳を押さえたのち、口に手を当てる」47%
「両手を使い、片耳と口を同時におさえる。」32%
「耳だけおさえる。」14%
「片手で口を押さえたのち、片耳に手を当てる。」7%

こうしてみると、「片手で片耳を押さえたのち、口に手を当てる」がもっとも多く、次に「両手を使い、片耳と口を同時におさえる」となります。この2つの表現で全体の79% ほぼ8割を占めています。たしかに、よく見る表現としての実感はあります。次に「耳だけおさえる。」「片手で口を押さえたのち、片耳に手を当てる。」は全体の2割。少数となりました。

この質問を設定した背景について。

耳が全く聞こえない人をさす日本語は1つだけではありません。聴覚障害者、聾者、難聴者、失聴者、ろう者、ろうあ者、耳の不自由な人・・・。その会話がされる場所、聴覚を失った背景、本人や周囲の文化、アイデンティティ、思想によって呼び方が変わります。質問ですが、これについて日本語学の視点から研究されたものはあるのでしょうか?

また、聾者は近代において、「唖者」「聾唖(ろうあ)者」と呼ばれていたことがありました。ほかにも「瘖啞(いんあ)」などの現在では全くみられなくなった表現がありますが、今回は割愛します。ようするに聴覚を失った人をさしていうときの語句は一様ではありませんが、このなかで「聾」という表現を手話でみるときにひとつのことを思いました。それは、

現代において、「聾」の手話表現はいくつかあるが、どういう分布になっているのだろう?

でした。最近の経験でいえば、「東京ろう映画祭」で上映された映画「たき火」(1972年)は聾者が多く出演していますが、手話で「ろうあ」と表現するときに人差し指で口を抑えてから耳を抑えるという表現をしていました。日本語でいえば、「聾唖」の唖が先に来ているわけです。しかし日本語では「唖聾」という言い方はきわめて稀です。近代の資料でみたことはあるのですが、流布した表現ではない。

わたしはフランスに行ったとき、現地で聾者に出会いました。自己紹介するときに片手で片耳を押さえたのち、口に手を当てる表現をすると、フランスのある聾者から「君はmuet(唖)じゃないだろう?」という指摘を受けました。日本でも「わたしは聾者なのだから、こうやって表現する」と口をおさえずに耳だけおさえるかたもいらっしゃいました。そのとおり、唖は発音して話すということができないという語源があります。これはおそらく「手話で会話をしているから、唖ではない」という唖の定義の再解釈によるものなのではないかと思われます。また、口をおさえる表現を削除することによって「唖」の意味を失わせることができるということが考えられているのでしょうか。
戦前・戦後の日本において、口で発音させることをめざした口話教育の隆盛があります。その時代、日本語として「聾唖」の唖が薄まり「聾」となりつつあったけれども、手話としては「聾唖」として残存しているのではないか。そうだとすれば、「ろうあ」を表現するということが名残として手話に残っているのだろうか。

日本語で聴覚を失った人をさしていうときのように分岐しているとするなら、どのような分布になっているのかというのがありました。

設定項目については以下のとおりにしました。これらの項目になったわけは、わたしがこれまで見たことがある手話表現という極めて主観的な視点で選ばれています(Twitterの仕組み上、4つしか設定できないようです)。その意味においては学術的な視点ではないということをお含みおきください。
まず、1は日常でもっともよくみる手話という印象、2と3は1960年世代までの方で多くみる印象、4は若い世代の一部でみることがあるという印象からきています。

1、片手で片耳を押さえたのち、口に手を当てる。
2、片手で口を押さえたのち、片耳に手を当てる。
3、両手を使い、片耳と口を同時におさえる。
4、耳だけおさえる。

その結果を再掲すると、

1、片手で片耳を押さえたのち、口に手を当てる 47%
3、両手を使い、片耳と口を同時におさえる 32%
4、耳だけおさえる 14%
2、片手で口を押さえたのち、片耳に手を当てる 7%

となります。わたしが予想していたのは、多いほうから1、3、2、4でした。1と3が多いだろうというのは予想していた結果ですが、2が少ないとは考えていませんでした。2の例でいいますと、こちらの動画がそうです。

この動画の40秒過ぎでは、「口をおさえてから耳をおさえる」という2に該当する手話表現がされています。7%ということは使用者は103人中7-8人ということでしょうか。最後にひとつ資料をみてみましょう。三浦浩(1886-1962)という明治に生まれ、東京盲唖学校に入学し、卒業後は聾唖学校の教員として活躍した聾者の表現例です。

三浦浩の手話表現例(『日本手話図絵』(1963年)より)

『日本手話図絵』は三浦を対象に1000語を収集した本です。連続する手話表現になっている場合は(1)(2)と単語の横に英数字を入れています。だからこの上下2枚の写真は連続写真となっています。
三浦は「ろうあ者」の表現として、片手を口にあてて、耳にあてるという動作をしています。これを先の投票結果でいえば、2に該当します。また、右の説明文には、表現に応じた説明として「ものいわないしぐさ」「聞えないしぐさ」とかいてあります。ここから「ろうあ者」は唖=ものいわないしぐさと聾=聞えないしぐさの二つ表現が融合したものであると理解されます(注:近代では聾はいわゆる耳が聞こえないだけで発声が可能であるという定義もありましたが、ここでは現代的に解釈をしてみました)。
これによってろうあ者であると。そうすると、先にみたわたしが聾者の手話表現をしたときにフランス人の聾者から「君はmuet(唖)じゃないだろう?」ということもわかるように思います。現代においても口をおさえるという表現がmuet=唖として解釈されている。

近代は、聾者のことを「唖者」とよんでいたことがありました。その意味において、2の手話表現のように口を先におさえる「唖」が先にきているところに近代のかおりが漂います。

今回の投票はインターネットだけでの投票でしたし、三浦の例だけですべてを断定することはできませんが、2の表現はもしかすると、消えつつある「聾」の手話なのかもしれません。比較的年配の方が集まる全国ろうあ者大会において同様の投票を行うと、2の割合は高いかもしれません。

聾というたったひとつの手話表現の先に歴史が見えたと感じられたら幸いです。

追伸:ちなみに3「両手を使い、片耳と口を同時におさえる」は32%と少なくない数字ですが、この表現は何に由来しているのでしょうか。聾と唖の折衷案として聾と唖を同時に表現しているのでしょうか?

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