長崎聖堂と長崎盲唖院 — 「中島聖堂由来記」を中心に

長崎聖堂の聖廟と大学門(長崎市・興福寺)

近代日本における盲唖教育の歴史を考えるとき、長崎盲唖院の存在は不可欠です。明治31年に長崎慈善会によって開かれた盲唖学校ですが、九州においてはそれ以前に盲人・聾唖教育はすでに試みられています。この中において九州ではじめての形を整えた盲唖学校であり、重要な存在でした。今でも岩壁の一部が長崎市内に残っています。しかしながら、原爆によって多くの史料が失われたこともあり、多くが明らかではありません。

長崎盲唖院は建築を転々としており、明治36年に校舎を新築する試みがあったのですが、日露戦争のために一旦中止になります。その際、長崎聖堂を借りたといいます(長崎盲唖学校二十年誌より)。長崎聖堂は近世の長崎において学問・文化の中心であったところで、平岡隆二さん(熊本県立大学)のウェブサイト「長崎聖堂の世界」で来歴と史料が紹介されています。

そこで、平岡さんの一助になるかどうかわからないけれど、ある史料を提示してみたい。これは「長崎教育」(462-464号、昭和10年2-4月)の3回にわたって掲載された長崎聖堂の記事です。といってもこれは新出の史料ではなく、平田勝政・菅達也「長崎県障害児教育史研究(第 II 報) : 明治30-40年代の長崎県盲・聾教育を中心に」においても紹介されています。

さて、この記事によれば、昭和9年の11月12、13日にわたって長崎聖堂の一切が所有者の向井兼徳から長崎教育会に寄贈されることになったといいます(これは由来記の記述と矛盾します(後述))。当時、向井家は東京にあったとのことですが、代わりに江戸末期の長崎聖堂の歴代祭主を支えていたという岩口家の岩口熊吉が管理していた。なお、この寄贈を機会に長崎聖堂の目録が作成されたようです。平岡さんが先のウェブサイトで紹介されている史料はこの寄贈のときに含まれていたものも少なくないのでしょう。

長崎聖堂の沿革史「中島聖堂由来記」(以下、由来記)が掲載されています。中島聖堂という呼び名は1771年に中島川の側に建てられたことから由来しますが、由来記の根拠は記事中に示されていないので取り扱いに注意を要するでしょう。要するに史料批判の必要がありますが、初見の感触では建築の表記や祭祀の状況など記述は具体的で典拠先があると思われます。とくに輔仁堂の記述には注意すべきところがあり、文章を略することを意味する「(略)」が使われています。つまり、何らかの記録を転記している部分があることは間違いないと思われます。他にもたとえば、崇聖祠の入口の左には「風雨盛防山上遡水源昭式穀」、右には「豆籩分闕里新開廟貌峙扶桑」の祠額があったという部分など、記述が具体的に感じられます。

この由来記は大正8年8月で終わっており、向井家が長崎聖堂を第三者に売却し、解き去られたと書かれています。解き去られたというのは解体したことを意味します。記事の冒頭では長崎教育会は向井家から聖堂を寄贈されたとあり、矛盾しているので注意を要します。長崎聖堂が実際に売却されたかどうか、その事実と購入者については別の史料が残っているはずです(原爆で失われていなければ)。

なお、わたしが注目した1つとして、明治24年は長崎在住の中国人が祭祀を行っていたが、明治26年までには終わったことが書かれているところが挙げられます。明治30年にはすでに訪れる人がまばらで荒れがちであったことが伝えられています。これは日清戦争の影響でしょうか。なぜ長崎盲唖院が長崎聖堂の建築を借りられたのか、このあたりに手がかりがあるように思われます。

最後には略図が掲載されていますが、平岡さんが紹介されている「長崎聖堂略図」と比較すると間口で微妙に違いはあるものの概ね共通しています。ただ、由来記をもとに作成された可能性も否定できず、この図面も根拠が示されていません。
それでも興味深いのは、聖廟と大学門が同一図面において2つ示されていることにあります。1つは図面の北側に、聖廟と大学門が記されているのですが、西端にも同じように聖廟と大学門があり、「移轉現存セル霊廟」という説明文があります。もし聖堂全体が大正8年8月に解体されたのであれば、このあとに岩口が聖堂と大学門を縮小したうえで西端に「再建」したことを指すのだろうと思われます。すなわち、この図面はかつての聖堂と昭和10年当時の現状を重ね合わせた図面である可能性が指摘できるでしょう。これら聖廟と大学門は昭和34年に現在の長崎市内の興福寺に遺っている建築であることはいうまでもありません。この記事が作成された昭和10年にはすでに規模が縮小された上での移築が成っていただろうと思われます。
また、『長崎盲唖学校二十年誌』によれば、長崎盲唖院は長崎聖堂の「講義室」を借りていたとしますが、どの部分を指すのか不明です。しかしながら、明治41年には360円を向井家に支払う予算が組まれていたことから、相応の規模を借りていたと考えてよいと思われます。

現時点での考察をまとめると、「由来記」は外部の史料を転記か編集したもので少なくとも大正8年8月までにはまとめられた記録である可能性があるといったところでしょうか。今後は平岡さんの研究成果と相互検証することで由来記の信頼性も明らかになるでしょう。

2017年4月27日追記:この件について、平岡隆二さん(熊本県立大学)と連絡を取り合ったところ、この由来記の本文は、昭和4年(1929)刊行された『長崎市史』(地誌篇 神社教会部下巻)における第9章 第1節「中島聖堂」の本文と、ほとんど同一であるとのことでした。年代からすると「由来記」は『長崎市史』から引用して構成しているといえそうです。

しかし、「往時の中島聖堂」は掲載されておらず、貴重なものであるという話でした。図面では聖廟・大学門が北と南西部にあり、南西部には「移轉現存セル霊廟」と付記されています。これが昭和10年(1935)のことであるとすると、聖廟と大学門は中島聖堂の中を1度、北から南西に移り、さらに長崎市の興福寺境内に移築されたという経緯を持つことになるでしょう。

平岡さんに感謝申し上げます。

 

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