東京デザインウィーク2016において学生団体が製作した木製のジャングルジム型の作品が燃えることで、5歳のお子さんが亡くなるという痛ましい事故があった。火の回りが早く、お子さんを助けることができなかったという。
現段階においては、木を薄く削ったものをたくさん使っており、それが照明によって発火した可能性が高いとされている。消火設備もすぐには使えなかったようだ。デザインのプロセス、大学や受入側のチェック体制、現場で問題が起きた時の対応はどのようになっていたのだろうか。デザインの知識・経験、体制といった問題のみに落とし込むのではなく、社会全体で捉えないといけない。

わたしがそう考えるのは身体障害と命をめぐる報道があるからだ。耳が不自由であれば情報保障に関する問題が命に関わることがある。たとえば救急車をファクスで呼んだときに誤報だと判断し、救急車を出さなかったという事例があった。目が不自由であれば、駅のホームからの転落事故や車との接触事故が命に関わることがある。
当然、これは現代だけの特徴ではないことに注意しないといけない。その一例としてある古い新聞記事を紹介してみよう。

この記事は、昭和3年10月3日と19日の大阪毎日新聞に掲載されているもので、大阪の天満橋駅の手前にある橋から大阪市立盲唖学校の盲の生徒が転落死したという内容である(プライバシーの関係で学生名にモザイクをかけている)。

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この事故がどのようにして起きたのかというと、大阪市電が天満橋駅に到着する前に、他の電車がホームにつかえていたので、橋の上に一旦停止した。それを乗っていた盲人学生がホームに到着したと勘違いして電車を降りようとして橋の下にある川に転落してしまったという(この時代、自動ドアではなかった)。残念ながら、この学生は溺死してしまった。ここには掲載していないが、もう1つ目撃談に関する記事があり、それによれば目が見えていても橋のうえを一旦停止するのはヒヤヒヤするという証言がある。

この記事に反応したのが、中村京太郎である。中村は全盲で点字毎日を編集していた人物であり、戦前の盲人の世界ではきわめて知名度が高い。

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中村は「訴へえざる盲人に代わりて」という記事を寄せ、溺死した彼に代わって主張している。中村はまず人の目があるところで起きた事故であったことを述べ、それを「由々しき人道問題であり、社会問題である」と指摘する。なぜなら、川に落ちた盲人をまわりは落ちた、と言いながらも助けようとしなかった、盲人を助けようとした二人の紳士も車掌ともめてなかなか救助できなかったからだという。このことについて中村はこう書いている。

「如何なる所において、どんなことが起こるかも知れないというものごとに対する不安な気分に絶えず襲われながら生活してゆかねばならぬ。こんなことでは人類の文化は決して完成されるものではない。私は訴え得ざる者に代って、あえてこれを社会に訴えると共に、ただに盲人に対する場合に留まらずすべて保護を要する人物に対する今日の社会の態度についてわが国民は少しく反省すべきではないかと思う。」(現代仮名遣いに直した)

ここで注目しなければならないのは、中村が盲人保護だけを主張していないことにある。中村が「すべて保護を要する人物」を対象にしていることに注意しなければならない。そう考えると、わたしには亡くなった5歳のお子さんとこの学生が一本の糸で繋がっているような気がしてならない。昭和3年と平成28年という90年近い時空を隔てた一本の糸がある。なぜなら、あのお子さんも、この学生もどこかで人・社会の視点や機構によって受け止めることでその命を助けられたと思うから。

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