聾の男女による物語と考えないほうがいい — 「ザ・トライブ」について(2)

「ザ・トライブ」が公開されたので、『美術手帖』2015年4月号に掲載させていただいたテクストをここで公開します。(クリックすると拡大されます)。画像の下にはテクストの全文が掲載されています。

BT201504_The_Tribe_KINOSHITA

 聾学校の寄宿舎に住まう聾の男女たち(=ザ・トライブ)が、欲望のおもむくまま肉体をぶつけ合っている。ストーリーを一言でいえば、このようなものだ。この映画の広報や感想をみると、「手話による映画」「聾唖の少年少女達の物語」などと紹介されている。役者を生業としない聾者たちがキャスティングされ、手話で語り合っている。携帯電話でのやり取りはなく、手をふるったコミュニケーションやアクションに終始しているところは、アンドレ・ルロワ=グーランが『身ぶりと言葉』において展開した、人間活動の原始的なかたちを思わせた。文字がほとんど出てこないところも、その原始的なかたちを増幅させている。

 しかし、わたしにとって「聾」「手話」といった概念そのものを剥ぎとってしまわなければ核心はみえなかった。かれらは聾者ではなく、手話という言語で意志を交わしているのでもないと想像してみよう。すると、一切の音声言語をもたない人類が登場する数世紀後の世界か、そもそも声を持たない種族を描いたSFとして表れてくる。

 これまでの映画では、聾者を聾者としてしか描いてこなかった。たとえば、小林桂樹と高峰秀子による「名もなく貧しく美しく」(1961年公開)は戦後まもない荒廃した日本を生きる聾の夫婦の物語であった。特徴的なのは、二人の周りに聴者(耳の聞こえる人)が頻繁に登場することによって、聾の身体に伴う不自由や不幸が強く表れてくることである。聾というイコンに伴う苦難と絶望を強調する対比的な存在としての聴者が存在していた。天秤が釣り合うように。

 それに対し、『ザ・トライブ』では聴者がほとんど登場せず、聾者たちの世界の背景となっている。そうすることで耳が聞こえる、聞こえないことは重要ではなくなると同時に「聾」「手話」も意味を喪失し、セックス、金、出世といった欲望と堕落にまみれた、普遍という言葉でさえためらわれる肉体だけがある。「聾」「手話」はすこしも主題などではなく、わたしたちの肉体の内面をあらわにするための皮膚にすぎない。この映画を、聾の男女たちによる物語と考えないほうがいい。

木下知威(建築計画学・建築史) Text by Tomotake KINOSHITA

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