聾の現実 — ザ・トライブについて(1)

この文章は、2015年2月5日に行われた「ザ・トライブ」の試写会のあとに書かれたものです。一部の関係者に共有されていたテクストですが、映画の公開にあたり、全文公開します。

 

散文的に。

「ザ・トライブ」について結論を先にいえば、映画を見たというよりは現実を見た。ここでいう「現実」はノンフィクション、ドキュメンタリーという意味ではなく、聾者として生きている世界の出来事であると感じられるという意味で使っている。

いまや、映画のなかで聾者を描くのは珍しいことではない。映画史をふりかえってみれば、身体障害を乗り越える美談として語るもの、悲哀そのものを表現するもの、身体特性を活用したものと3分類されるだろうが、「ザ・トライブ」はいずれにも該当しない。この映画が開拓したのは、聾の「現実」であった。

見終えたあとに小雨の銀座を歩いているとき、ネオンの風景が映画そのものであることに気付かされた。あの映画は現実だったのか。いや、「映画は現実」なのか。

この映画はどこか懐かしい感覚をおぼえた。懐かしいといっても、自分の学生生活を思い出すという懐かしさではない。わたしは聾学校ではなく、一般の学校に通学するという形での教育を受けていた(インテグレーション)。このかたちは手話も教えられないし、自然と聾者との付き合いも限定される。わたしは一般的に、聴覚障害、聾と見なされているけれども、聾のコミュニティにおける立場は弱いということだ。聾者と会話をする機会はおそらく、聾学校を出たひとたちとは大きく異なっている。一斉に手を動かしはじめるかれらの姿は聾のコミュニティそのもので、わたしにとっては同等の身体の性質をもっているにもかかわらず近付き難い、あの感覚を懐かしく思い出させてくれた。ショットが長めにとられることで手の動きを追いかけられるところも、その感覚をより強くさせる。

教員の少なさ。教員は売春の手助けをする木工の教員(最初は用務員かと考えた)ぐらいしか出てこない。冒頭のシーンで主人公が校長室を訪問したとき、彼女は来賓とのおしゃべりにふけりながら対応をする。彼女の意識は来賓=外に向けられている。クラスの担任も登場したのは一度だけでかれらは映像の外にいる。これによって、聾者たちの世界の外郭が強調され、近付き難い感覚が増幅されていた。

聾者たちのなかで1人だけ重複障害をもつらしいものがいる。かれは、この映画の強さを根底から支える存在である。この映画では聾者たちの上下関係が描かれるが、かれが最下位にいるだろう。かれの登場シーンは2回だけだった。1つめはにぎやかな食堂の端にかれが孤立している。同じく孤立している主人公が向かいに座ると、かれはご飯をとってしまう。これをきっかけに主人公は同室となる仲間に誘われてグループに入っていく。2つめは主人公と相部屋になり、主人公からトイレットペーパーをぶつけられて泣きわめくシーン。このふたつのシーンは主人公がヒエラルキーの最下位に入り、そして相部屋になることでふたたび最下位に転落していくことを象徴していないか。だが、それはおそろしいことでもある。重複障害という、日本でも法的に一級(最上位、もらえる年金が最も多い)に位置する身体障害者にたいする、わたしたちの無意識の憐れみを伴ったまなざしがかれに投影されていなかったか。

「字幕もなく、吹き替えもない」といった趣旨の英文の説明が冒頭にある。そればかりか国名、固有名詞、地名といった文字自体でさえほとんど出てこない。長距離トラックの「VOLVO」、校内のタギングにちらっと見える単語、イタリア土産のシャツに書かれた「ITALY」・・・。それぐらいだろう? 映画をみながら無意識に文字を求めて足がかりをつかもうとしている自分の姿に気付く。この映画は、字幕を求めるように、光としての文字をたよりにしている蛾としての自分を映す鏡だった。

冒頭の説明で「吹き替え」の英文は”voice-over”があてられていて、声を飛び越えて行く、声の向こう側というニュアンスを抱かせる。だけれども、かの地の手話を完璧に理解していないわたしからすれば、その向こう側はみえない。おぼろげにかれらの意志を認識することはできても、足がかりを得ることができず、その内面に着くことができない。かれらの声の先にあるものをみることができない。最初に戻ろう。ネオンの風景が映画そのものであった、と。そう思うのは、すれ違う人たちの会話や駅に鳴り響いているアナウンスといった一切を拾うことができず、声の向こう側にたどり着くことなどできそうにない。この点においてザ・トライブのなかを生きていた。映画がそのまま銀座に広がっていた。

では、この映画は現実なのだろうか。いや。そう思わせるのは物理的な衝撃の編集に起因するのではないか。2つのシーンをとりあげよう。ひとつめは、生徒たちのストリート・ファイトのシーン。デヴィッド・フィンチャー『ファイト・クラブ』などに親しんでいたわたしからすればずいぶん生易しい。殴っているふりをしているがゆえに、物理的な衝撃が弱い。それだけで現実を強く揺るがすには十分な効果を帯びていた。その反対となるのはラスト・シーン。主人公がかつての仲間たちを殺してまわる場面で、棚をふりおろした瞬間の衝撃音がわたしの椅子に響くが、その衝撃音がありえないがゆえに夢のようであった。聾者たちの上下関係、売春・暴力・金が中心の物語は、聾者の世界において普遍的なことであるのに、それらのシーンがさしこまれることで映画そのものが夢のように思え、わたしの聾の現実を狂わせる効果があった。その意味において、これは映画だ。

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