春の京都を訪問し、京都国立博物館で「狩野山楽・山雪展」をみてきたことを記録しておきます。たいへんすばらしい展覧会でしたが、いくつか感じることがあり、それを書いておきたい。

展示室に入った瞬間、永徳の血筋がよく感じられた。というのも、2009年でしたか、狩野永徳展をみたときのあの雄大な感覚を思い出せるような気配がした。永徳展をみたときには永徳以降の画家についてそれほどまとめてみたことがないなと気付いたが、それが今回果たせたというか。永徳以降の表現を感じられたことが最大の収穫であった。
カタログには山下善也さんの「厳選の山楽から、山雪の全貌へ − 京都の狩野派は濃い。」では、狩野派の人たちの年齢を記した表がとてもおもしろい(8−9頁)。これまでは家系図が多くみられますが、この図により、それぞれの個人のすれ違いが表現されていて、すばらしい。これは美術史、建築史など多くの史学で参照すべきだと思う。

それから、土居次義先生のことに言及しないわけにはいかない。わたしのように美術史専攻でない人でも土居先生の論文を手にとることがあるほどだから、美術史では非常に知られた先生だろうと以前から漠然と感じていた。今回の展覧会を拝見し、いかに土居先生のご研究が大きいものであったかを実感できたように思う。基礎研究の大切さをかんじる機会となり、励みになった。
今回の展覧会では、土居先生の野帳が展示されていたが、要所を抑えながら、かつスピーディさを失わないノート。ノートをめくりたくなる衝動をおさえるのが大変だった。

さて、朝顔図襖(天球院、出品番号23)は初めて見ましたが、山下さんの解説を読み、天球院の障壁画が美術史上、きわめて重要な位置を占めていることを山楽・山雪を通じて理解することができたように思う。この障壁画が美術史上、本当に大切だと共感できる。美術史において土居、山根、辻らによる綿々とした議論があるのもすばらしい。
ただ、天球院の建築は建築史ではどこまで語ることができるだろうか。もちろん修理工事報告書があるが、通常非公開ということもあり、その経歴や空間については追究しきれていないのかもしれないと思った。もちろん、史料の有無が問題となるが、天球院の建築と障壁画の状況とよく照らし合わせる必要性はあるのかどうか、考えてみたいなという気持ちにさせられる障壁画だった。
それにしても、天球院は竹と虎の襖のうえにある欄間のバランスがとてもすばらしい。雷のようなフォルムのせいなんでしょうか、嵐の予感がして、震える。
さて、カタログを読んで感じたことを書いておきます。

1)東福寺法堂天井画雲龍図縮図について
これは、明治14年に焼失した東福寺法堂の天井画の縮図です(出品番号8)。
縮図の左下には「葆光斎泰寛」なる印がありますが、カタログでは人物が誰であるか不明としつつも、土居次義のノートによりつつ、この人は狩野永祥(1801〜86)としています(カタログの250頁)。そこで、以下の史料を検討する必要があるように思われました。

梅川重高『新畸人伝』(文政8、9年頃、カリフォルニア州立大学バークレー校蔵)

なお、これは岡によって翻刻されています。

岡雅彦「新畸人伝」『国文学研究資料館紀要』 第13号、昭和六十二年

岡によれば、一点しか確認されていないといいます。文政8、9年より20年ほど前の享和・文化期の京都の人物伝で、下巻に梅河円円なる人物の伝記があります。本文は304−305頁に全文翻刻が掲載されています。それによれば、

書は烏石門人生谷に学ひ諸芸に秀たり円々書は三宅才二郎浪華学校ニ学ひ画は法眼葆光斎に随ひ其筆力ヲ得たり
・・・中略・・・
(梅河は)文政九年四月九日六十六年にて世を去る

とあるといいます(下線部はわたしによるもの)。翻刻文では「葆光斎」の「葆」が「褓」になっているが、318頁の解説では、「画は法眼葆光斎に随ひ」と書かれており、どちらが正しいのか、原本にあたる必要があります。それにこの本そのものの信憑性も考えなければいけませんが、この葆光斎(褓光斎)は法眼であり、画師として位の高い人物であることがわかります。この人物について、管見のかぎりはこの梅川重高『新畸人伝』でしか見たことがありません。この本が京都をテーマにしていることも考慮するべきだろうと思われます。

そこでこの葆光斎が「法眼」とあることと、梅河円円が文政九年(1826)に亡くなっていることを考えると、土居が「葆光斎泰寛」は狩野永祥としている点と合致するかどうかを検討する必要があるように思われました。問題は以下のようになるでしょう。

1、この天井画の縮図が作成された年代は江戸末期から明治初期としているが、文政期に成立した『新畸人伝』にある法眼葆光斎は江戸末期の人とは考えられない。画期をどう説明したらよいのか?
2、文政九年(1826)に亡くなった梅河が永祥に学んだ可能性があるのか、永祥は法眼であったのか、ということになる。この本が文政期に成立していることを考えると、20代の狩野永祥がすでに法眼であり、さらに葆光斎を名乗っていなければならないのではないだろうか?
3、もしくは、梅河に教えたこの葆光斎とこの縮図の印の葆光斎はまったくの別の人物なのか? 法眼という立場上、葆光斎はある程度の画力を認めなければならないように思われる。そして、梅河が画を学んだのは文政より前であろうと思われるから、この人物は文政以前を生きた人物である可能性が考えられないか。たとえば、文政期に法眼に叙せられていたのは狩野養信や勝山琢眼があげられますが、どうなのだろうか。

2)紅梅図と牡丹図と建築の関係について
カタログに取り上げられている川本桂子のご研究も土居先生の見識に立脚しつつ、よい研究をされている。大覚寺宸殿の紅梅図と牡丹図(出品番号3、4)の成立についてですが、この大覚寺宸殿について藤岡通夫による「元和五年(1619)にできた東福門院御所宸殿が前身である(『京都御所』より)」という考えを川本は否定し、障壁画を慶長期の成立とされた。これについての反論が西和夫と小沢朝江よりされたことがあった。

西・小沢「大覚寺宸殿の文献史料による移築の確認と移築時期の特定 : 建築と障壁画による総合検討(1) 」
小沢・西「大覚寺宸殿の痕跡と平面寸法による前身建物の検討:建築と障壁画による総合検討(2) 」

二人によれば、寛永19〜20年(1642−43)に移築されたと史料から指摘している。それに、前の建築から大覚寺に移築された際に柱配置が変更されていることを根拠に、画面の幅が変更されなければならないとしつつも、画面幅を変更した形跡はみられないという。ただし、山下の説明では金箔の修理痕があると指摘されています(カタログ、247頁)。

わたしは実物を拝見し、山下さんを支持したい。つまり、これらの障壁画は当初からこの大きさではなかったと考えたい。しかし、小沢がいう寛永19〜20年に移築されたということは、信をおいてよいと思われます。であるならば、藤岡、川本、小沢、西、山下によるご研究は以下のようにまとめられるのではないでしょうか。

「寛永12年に亡くなった狩野山楽によるこれらの障壁画は、寛永19〜20年に大覚寺に移築される際に改変を加えられた。」

以上になります。

山下善也さん、すばらしい展覧会をありがとうございました。

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