先日は加藤康昭の視覚について紹介しました。それを受けて、塙保己一の論文のうち、どのような視覚を有していたのかを論じているところを読みました。

黑田亮「塙檢校考」『速水博士還暦記念心理学哲学論文集』(岩波書店、77-97頁、1937年)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001949419-00

突然話はそれますが、塙の息子・塙忠宝は伊藤博文と山尾庸三によって暗殺されたといいます。その山尾が訓盲院の創設と関係が深いことは周知のとおりであり、複雑な心情を呼び起こす人が少なくないのではないでしょうか(これについて、「伊藤博文と山尾庸三が塙忠宝を斬殺したこと」でまとめておきました)。

さて、本題ですが、塙は5歳に失明したといいます。「ようやく幼少にて明を失せる故、色彩の観念も至りて浅く、ただ柚の色とほほづき提灯の色のみは知っていたと伝えてある」というところが塙の視覚的な記憶のすべてであるといいます。

黑田は「単に色彩だけの記憶に留まるものではない」と考え、『視聴草』(4集5)に掲載された記事を参照します。これによれば、三水に吉という字を書いて町の名前を尋ねるものがあったそうですが、塙は「油町」のことではないかと言い、そのとおりだったので相手は感謝したというエピソードがあるといいます。というのも「吉」「由」はどちらも訓読みで「よし」と読むので、その人は誤って吉だとしたのではないかと塙は考え、周りの人は感心したという話です。

そこで、黑田は『塙検校詳伝』に掲載されている、塙の孫・塙忠韶の述懐を引用します。「祖父は文字を書く事はない、『名家全書』にあるのは門人の石原正明による代筆である」とあることより、塙が字を書いた可能性を否定します。そうではなく、「文字の視覚像又は之に似たものを宙に描いて、思案したと見る方が眞に近いのではないか。」と頭のなかでイメージしたのではないかといいます。
この証拠として、「定考」を「ぢゃうかう」とは読まずに「かうぢゃう」と逆さまに読むのは、「上皇」という読みに通じるからだと説明していることや、箱の角の名前に「折り角」「丸角」「切り角」「入り角」の4種があることを図で説明しているところを取り上げます。

ところで、この塙忠韶の述懐を読むと、京都盲唖院においてきわめて重要な箇所があることに気付きました。
これについてはまた別の機会に書いてみたいと思います。

2013年 4月 16日(火) 20時37分36秒
癸巳の年 卯月 十六日 壬子の日
戌の刻 四つ

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